65
闇の中に点々と、燃えるロープの切れ端のようなものがある。蠢きながら、悶えながら、細長い炎は徐々に灰になっていく。それは逃げる魔女が落としていった蛇の髪だ。
赤い道標のように、燃える蛇は礼拝堂に向かっている。それを目で辿りながら、礼子は唇を噛みしめる。
「これが、全部、悪い夢ならいいのに…」
か細い声が礼子の耳に届いた。
「お願い…うちを、礼拝堂へ…雅子と美緒のところへ」
薔薇の香りを頼りに、礼子は倒れた一美のところへ這い寄る。息苦しいほどに濃い薔薇の芳香は、香しいと言うよりもはや、腐臭に近い。
「一美!しっかり!」
「うちを起こして…礼拝堂へ」
「私が連れていこう」
多佳雄の声がした。長身を折ってかがむと、一美を抱き上げ、背負う。そして横で立ちすくんでいる由起夫を叱咤する。
「馬鹿、なにをしてる。まーちゃんが心配じゃないのか、行くんだ!」
少年が息を荒げて走り出した。他に人の気配はなかった。美緒のしもべの獣たちも、あらかた逃げ去るか、身を隠すかしたのだろう。軽々と一美を背中に持ち上げ、歩き出した多佳緒の服を掴み、礼子も震える足を踏み出す。
礼拝堂の扉が開いた瞬間、パイプオルガンの音が重々しく広がった。ラヴェル作曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」。堂内にあるかぎりの燭台に蝋燭が点り、シスター福永は法悦の表情でオルガンを弾き続けている。
よろめいて床に倒れ込んだ美緒は、歯ぎしりをして吼える。
「雅子、一美、おまえたちみたいな、幸福な女の子に、この私が負けるわけにはいかないんだよ!」
天空からの雷撃さえ受け止めた蛇の髪が、燃えている。次々と蛇が焼かれ、美緒の頭から脱落していく。
「祭壇に、聖水とかいう水があったはず…」
十字架の聳える祭壇までが、永遠の道程のように遠い。美緒は這いずって進む。虹の輝きを放っていた肌は黒ずみ、松の樹皮のように皺ばんできた。背後の扉が軋む。振り返った美緒の目に、ボブカットの少女のシルエットが映った。
雅子は、人形のようなぎこちない足取りだ。目を宙に泳がせ、礼拝堂の中を首を傾げて見回す。ゆっくりとその視線が、美緒を捉えた。
うふふ…、無邪気な子供のような笑いが、雅子の唇から漏れる。
「こんなとこに逃げ込んだんだ。あたしの一美を咬んだ悪い蛇は」
美緒は力を振り絞って、信じられない素早さで通路を祭壇まで駆け、杯盤に湛えられた聖水に頭を突っ込む。水蒸気があがり、蛇たちがシュウシュウと息を吐く。水と血と漿液を滴らせながら顔を上げた美緒の目は、地獄のかまどだ。
「こんな事で私がやられると思うの?雅子、おまえは私の獲物だ。呑み込んでやる」
「許さないから、一美を傷つけたおまえは」
雅子は微笑したまま、祭壇に歩き始める。
「もう二度とイタズラが出来ないようにしてあげるよ」
美緒の全身に、七色に光る鱗が浮かび上がり、赤いオーラが雅子めがけて放射される。青白い炎のカーテンが美緒のオーラを跳ね返す。雅子のぎくしゃくとした歩みは止まらない。美緒の眼前にまでたどり着く。
雅子は、ゆっくりと手を伸ばし、美緒の首に下がった勾玉を掴む。強く引いて、紐を引きちぎる。美緒の顔が歪む。
「こんなものがあるから、いけないんだ」
雅子は微笑んだまま、掌の中の勾玉を、一気に握り砕いた。
66
悲鳴とも怒りの吼え声ともつかない絶叫が、パイプオルガンの音色を圧して響き渡る。美緒は両手で雅子の咽喉をわし掴みにし、髪の蛇が煙と炎をあげたまま、雅子の全身に絡み付いた。
ほとんど顔が触れそうになりつつ、美緒と雅子はまともに視線をぶつけ合う。怒り狂う美緒の表情、頬にえくぼを刻んだ雅子の透明な笑み。
「美緒、あなたは自分の悲惨な境遇に、なにか意味があると思ってるでしょ?」
咽喉に食い込む美緒の鱗だらけの手や、頬や首に噛みついて来る毒蛇を意に介さず、雅子は明るく囁く。
「世の中の事、この世界の事柄全部に意味があると」
美緒は地団駄を踏む。
「何で笑っているんだ!?咽喉が潰れて、毒が身体中に回ってるんだぞ!」
雅子は笑顔のまま、首を横に振る。
「あなたの魔力、あたしには、タネがばれちゃったのよ。髪を伸ばしたり、千切ってくねらせたりは、念動力でしてる。でも、それが毒蛇や大蛇になるのは、あなたが相手に、そう幻視させているだけ。毒蛇だと信じ切っていれば、髪の先に刺されただけでも、本当にからだが毒への反応を示してしまうから、あなたほど上手く幻覚させれば、たしかに効果はあるんだろうけどね」
美緒の顔が凍りつく。雅子は、咽喉に巻きついた美緒の手をとり、外して、握り締める。そして、美緒に頬ずりしながら、甘い声を耳に吹き込む。
「あのね、この世界に起きてることにね…意味なんて、ないんだよ」
「何を言ってるかわからない。私は、おまえを呑み込んで、この世界を滅ぼすんだ」
「世界を滅ぼす?たとえ人間が全滅しても、地球にはたいしたことじゃないよ。そんなことをしても、美緒、あなたが神様の世界に生まれ代わって、幸福になれるなんて筈ないよ。それ、あなただけが夢に描いたまぼろしなんだよ」
美緒の唇がわななき、歯がカチカチと鳴り始めた。
「なんで私の願いを…そんな筈はない!教えてくれたんだもの…闇の女王、黒い聖母が、私に、ちゃんと…」
雅子の顔に、気の毒そうな色が浮かぶ。
「美緒、あなたって、わりと人が良いんだねえ…黒い聖母はね、あなたが運んでくる生贄が欲しくって、都合の良い事ばかり教えたんだよ」
髪のちぎれる音が凄まじく鳴り響いた。美緒が力いっぱい雅子を突き飛ばしたのだ。身体に美緒の髪を巻きつかせたまま、雅子は通路に倒れる。美緒の髪は…ぜんぶ、蛇ではなくなっている。焼け焦げ、縮れた、ただの長い髪にしかすぎない。
「嘘だ!!」
祭壇に仁王立ちになって、美緒は天井を仰ぐ。一面に描かれたフレスコ画は、天使と悪魔の最終戦争だ。
「サイテーの人生をやらされてる私が、最悪の魔女になって、幸福で上品ぶって高慢なやつらをやっつけて、この世界を全部逆転させるんだ、悪魔は天使に、天使は悪魔に入れ替わる。みんなに愛されてる雅子、おまえの血を吸い尽くして、私がみんなに…」
美緒は、かっと口を引き裂く様に開く。犬歯が鋭く尖り、肉食恐竜の牙のようだ。雅子めがけて、豹の身ごなしでジャンプする。
空中の美緒に、瞬時に無数の炎の玉が群がった。宙に浮いたまま、美緒のからだは炎に包まれた。
「美緒、そんなにこの世界が嫌なら、消してあげるよ。行く先は、あたしにもわからないけどね」
雅子の口調は、慈愛に溢れていた。
礼拝堂に踏み込んだ多佳雄や由紀夫、礼子は、パイプオルガンの音色のなか、雅子と美緒の会話に圧倒されて、一言も言葉を発する事が出来ない。そして、空中で全身が燃え始めた美緒を、息を飲んで見上げるばかりだった。美緒の声が、オルガンの響きに混じり合いながら降ってくる。
「夢だったんだ、長いこと、夢に見ていたんだ。ママと手をつないで、ピクニックに行く。友達も一緒。手作りのお弁当。ママも、友達も、私の赤ちゃんも、みんな、にこにこわらっている…ああ、夢のままに終わるんだね」
美緒の身体を覆う鱗が焼け焦げると、その下から傷一つない少女の肌が現れる。髪もやわらかに渦を巻く。しかしその姿はしだいに炎に溶けておぼろになり始めた。
そのとき、一美が、多佳雄の背中から、血に染まった手を伸ばし、声を振り絞る。
「美緒!友達は、ここに…いるんや」
雅子が振り返り、静かに首を横に振る。
「一美、もういいんだ。美緒がそれを望んだんだ」
そして美緒に向かい、強大な魔女は、いとおしげに告げる。
「さようなら、忌まわしい蛇。ちっぽけで泣き虫の、女の子。そして、間違ってこの世界に墜とされた、神様の子ども!」
雅子の言葉に、ほとんど輪郭だけしか見えなくなった炎の中の美緒が、嬉しそうに笑ったように、一美や礼子には見えた。
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美緒を焼き尽くした炎は青白く変わり、高く上って、祭壇の十字架に貼り付く。十字架が煙を上げて燃え始めた。
「おおお…なんてことを!」
パイプオルガンの音がやみ、福永が顔を引き攣らせて、十字架めがけて走りだす。雅子の目が光った。一美がもがいて多佳雄の背中からずり落ち、床に転がりながら叫ぶ。
「雅子、もう、やめて!」
雅子は目が覚めた様に振り返り、あわてて一美に駆け寄って、起きあがる力もない長身の少女を抱き上げる。
「一美、逝っちゃだめだよ!絶対、許さないから、あたし!」
そのとき、礼拝堂の入り口から、しわがれた男の声が響いた。
「花宮雅子…恐るべき大魔女よ、我に従え…」
ぐったりしたかれんを腕に抱えたまま、遠藤は右手に細い包丁のようなナイフを逆手にかざしている。立ち上がった雅子を見て、恐怖に震えながら、呪文を唱えようと口をあける。だが…いくら唇を動かしても、声にならない。
「そんな意味のないたわ言、もう聞きたくないよ。無駄だよ、音、消してるから」
雅子は、ゆっくりと遠藤に向かって行く。遠藤は顔に滝のように汗を流し、かれんの首にナイフを突きつける。
「寄るな!こいつが死ぬぞ」かすれ声だがそれだけは聞こえた。
「ふふ、かまわないよ、そんなこと」
雅子は無邪気に笑った。遠藤の顔が白くなる。腕が痙攣的に動く。
「だめだ!まぁ」
礼子が悲鳴をあげた瞬間、雅子は右手を伸ばした。その掌が、かれんの身体を突き抜けて、遠藤の咽喉を掴み、そのまま、高く差し上げる。かれんもナイフも放し、両足をバタバタさせながら、遠藤は鉄のような雅子の手から逃れようともがく。
「ノワール?そんなに暗闇が好きなら、良い所へ連れてってあげるよ」
笑いながら雅子は、遠藤を片手で吊り上げたまま、祭壇に向かって歩きだす。燃える十字架の根元に、福永が抱き付いて泣いている。その福永が、足音に振り返り、目を丸くした。
かつん、こつんと音を立てて歩く雅子の足が、床にめり込んで行く。見る間に腰まで床に埋まり、遠藤の身体もまた沼に呑み込まれるように沈んで行くのだ。雅子の笑顔が吸い込まれ、無様に取り乱した遠藤の顔が消え、溺れる者さながらに伸ばした両腕が、ずるずると床に引きずり込まれて行った。
投げ出されたかれんに駆け寄った礼子は、遥か遠くから悲鳴が聞こえたような気がした。あまりに絶望と恐怖に歪んでいて、誰の声ともわからなかったが、遠藤に違いないと思った。
「まぁ…いったいどうしちゃったんだ。もう、やめてくれよ、いつものまぁに戻ってくれよ」
由紀夫が、泣きだしそうに呟く。
かたん、ことん、と再び足音が響いた。徐々に大きくなる。祭壇のまん前に、ボブカットの頭が浮かんだ。沈んで行ったのと同じ速さで、雅子はゆっくりと姿を現わした。遠藤の姿はない。
「遠藤先生を…どうしたの?」
礼子が震えながら尋ねると、涼しい声が返って来る。
「黒い聖母にあげてきたよ」
なんの感情も示さずにそう告げた雅子に、一美が弱々しく目を開き、唇を噛んだ。
(黒い聖母は、わざと私に、名前の一部を告げなかったんだ…カーリー・ドゥルガー、鬼子母神!人間を食らう女魔神…)
雅子は、再び一美のところに戻り、かがみ込んで小さく呟いた。
「一美…いつもあなたは、まっすぐで純粋だったね。あなたがジャンヌで、あたしがジルだったときも、あなたが白い鎧の王女で、あたしが邪教の黒衣の巫女だったときも。いつだって一緒には、いられなかった。でも今度は」
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白い少女の手が、血に染まった少女の手を撫でる。触れた場所から甘美な暖かさが広がる。一美は雅子の手を握り返し、頼りなく呟く。
「ジャンヌ…?ジャンヌ・ダルク?じゃあ、ジルって…ジル・ド・レ?」
「もうそんなことに、意味はないよ。もう、なんにもいらない。あたしと、一美だけがあればいい」
燃える十字架が激しく軋み、倒れかかる。黒煙が天井から下がってきた。由起夫がいきなりダッシュして雅子の肩を掴む。
「まぁ!とにかく、ここを出よう」
「あたしに触らないで!」
激しく振り離された反動で、由起夫は通路に転がり、ベンチに背中をぶつけてうめく。多佳雄が当惑して立ちすくんでいる。
「まーちゃん、君はいったい、どうするつもりなんだ、その…一美さんを?」
一美の手を握りながら振り返った雅子の瞳は、揺らめく炎に満たされて多佳雄を戦慄させた。
「一美の超能力と、あたしの魔力を知ってしまったあなたたち…みんなまとめて、黒い聖母の生け贄になってもらうわ。礼拝堂の火事で行方不明になったという事にしてね…」
あまりの衝撃に、かれんを抱えたまま礼子は硬直する。雅子の言葉が信じられない。血を吐くような声で、一美がうめいている。
「あかん…雅子、そんなことしたら、うちは…雅子を憎む!」
「それしかないんだよ、一美。あたしたちが、一緒にいるためには…それに、傷ついたあなたの脳の修復には、新しい細胞がいるでしょ」
雅子はそう言って、礼子とかれんを見つめる。礼子は目眩がした。雅子の目は美緒の凶眼よりも遥かに恐ろしかった。食事の「材料」を選ぶ主婦のように雅子は、礼子を見ていた。
雅子は一美をこの上なく優しくベンチに横たえると、礼子たちの方に歩み始める。マリオネットのようながくがくした歩き方。しかしその顔は落ち着き払って、微笑すら浮かべている。礼子は、何も考えることが出来ない。多佳雄が脂汗を顔に浮かべて雅子をとめようとしたが、一歩踏み出しただけで、眼前に出現した青白い炎の玉に阻止され、金縛りにあっている。背中を痛めた由起夫は、尻餅をついて涙を流して雅子を振り仰ぐ。
そのとき、ばりばりと轟音が響き、十字架が持ち上がったかと思うと、雅子めがけて垂直に倒れかかった。剃り上げた頭にダリヤの花を入れ墨した巨漢・ホテイが、台座から引っこ抜いて叩き付けたのだ。
火の粉と青白い炎の玉が乱れ飛び、砕け散る十字架の下で、雅子は床に膝を突く。耳を押さえ、目を固く閉じて、悲鳴を上げる。そこへ襲いかかったホテイは羆さながらだ。
「おれの姫を、よくも燃やしたな!!おまえのからだ、ばらばらにして、なかみをぶちまけてやる!」
ホテイの右手が、雅子の首の後ろを掴んだ。そのまま頭上高く差し上げ、左手で腰を握りしめ、スキンヘッドを雅子の背中に突き上げる。雅子の身体が弓のように反り返った。ホテイは雅子の背骨をへし折るつもりだ。
巨人の身体に、青白い炎たちが突進している。しかし、砕け散った十字架のかけらが赤く燃えながら空中に浮遊して、それを跳ね返している。
「美緒の、残留思念が、あの十字架に…」
一美が歯を食いしばって半身を起こし、悲痛に叫んだ。入り乱れる青白い炎と赤い火のカーテンの中で、雅子の身体がきしむ。
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「うあわあああ!」
突然絶叫して飛び出していったのは由起夫だ。ぶざまな格好で、腕を振り回しながら火のカーテンを突き破り、ホテイの腰に体当たりする。そのままむしゃぶりつく。多佳雄が続いた。彼の身長はホテイと余り変わらない。右手をハンマーのように振り回して、巨漢の顎にパンチを見舞う。みぞおちにボディブローを叩き込む。しかし、ホテイは倒れない。雅子を離さない。多佳雄は必死の形相でホテイの股間を蹴り上げる。効き目がない。ついに多佳雄は由起夫と一緒にホテイの左足に抱きつき、持ち上げようとする。
礼子が走った。全力の助走のパワーを余さずに、飛び蹴りでホテイの顔面から蝶の仮面を吹き飛ばした。だが、それでも巨人は岩のように立っている。鼻からおびただしい血を滴らせながら、舌なめずりして両腕に力を込めようとする。
「花宮!」「まぁ!」
どこに隠れていたのか、いきなり現れた野木と香奈が、由起夫たち父子に加勢して、ホテイの足を掴んだ。
一美が、がくがく足を震わせながら立ち上がる。振り返った礼子が頷いて叫ぶ。
「一美、使って!念動力を!あたしたちもろとも、こいつを吹っ飛ばして!」
礼子が二度目の跳び蹴りを放つのと同時に、一美は掌を前に突き出した。緑のオーラが輝き、青と赤の火のカーテンを破ってホテイに激突した。潰れた鼻を再度蹴られ、念動力の衝撃を食らって、ホテイがよろめく。礼子も由起夫たちもはじき飛ばされ、床に転がった。しかし、ホテイだけは、まだ雅子を差し上げたまま、立っている。
絶望の顔で見上げた一美の目に、誰かがよろよろと近づいてくるのが見える。こぶしを振り上げたかれんが、泣きながら突進した。弱々しく振り下ろされた腕が、軽くホテイの腹にぶつかる。ホテイは、ぐたり、と膝を折ると、雅子を投げ出して、朽ち木のように倒れた。
かれんのすすり泣きだけが響く。倒れた者たちは、皆、動こうとしない。スキンヘッドの巨人はもとより、衝撃波を受けた礼子に、多佳雄や由起夫、野木と香奈までも意識を失ったようだ。そして雅子は不自然に手足をねじって横たわっている。
近づこうとした一美は、あっけなく足をもつれさせてのめった。もうひとかけらも手足を動かす力が残っていない。声を出すのも苦しい。
「雅子…まぁ…返事をして」
必死に伸ばした手は、雅子の身体に触れるにはあまりに遠い。しかし、声には反応があった。ボブカットの頭が動き、髪を揺らして、黒い瞳が一美を向く。
唇から血を流し、朦朧とした目で、雅子は一美を捜し求める。
「どこに…どこにいるの?」
「ここや…まぁ、うちの大事な、ともだち…」
「一美!」
雅子は這う。痺れた手足でもがきながら、礼拝堂の床を這い進んで、倒れた一美にしがみつく。一美にはもはや、雅子に答える力がない。固く一美を抱きしめ、雅子は床に横たわった。
「だめだよ、一人で行っちゃ、だめだよ、行かせない、絶対に逝かせないから」
ふたりの上に煙が垂れ込めてきた。燃え落ちた十字架から広がった火の手が、祭壇を燃え上がらせ、壁をなめようとしていた。
泣きながら、かれんは祈る。ただ、祈る。
(神様、あたしたちを助けて、助けて、助けて)
70
不意に、かれんは肩を叩かれる。小さな手。振り返ると、赤いセーターを着た四歳くらいの女の子が、切りそろえた黒髪の下から上目遣いに観ていた。
「おねえちゃん、泣いてちゃ駄目、あれで火を消すの」
小さな手が指さす先に、赤い消火器の筒が浮かび上がる。かれんは、操り人形のようにふらふらと歩み寄り、重い消火器を掴んだ。
「そこを握って、引っ張って、これをこう向けて…」
赤い服の女の子は、てきぱきとかれんを指図して、消火器を操作させる。
「力一杯握るの」
白い泡が噴きだし、蛇の舌のように蠢いていた炎がたちまち鎮圧されていった。消火液が尽きるまで、かれんは死にものぐるいでホースを支え続けた。完全に火が消えているのを知り、尻餅をつく。
「じゃあ、アキおねえちゃん呼んでくる」
ぶっきらぼうに女の子は言うと、ぱたぱたと軽い足音を響かせて去る。
「アキおねえちゃん?誰、それ…」
かれんが茫然と呟いたとき、礼拝堂の扉が、軋みながら大きく開いた。涼やかな風が流れ込んでくる。それと一緒に、靄のようなものが一面に立ちこめた。白く柔らかな光が溢れ、かれんは限りなく優しい何かに包み込まれたことを感じる。
人影が、開いた扉から歩み入ってきた。若い女性が、老人の乗った車椅子を押しているようだ。そしてかれんの心に、会話が響いてくる。
(亜希おねえちゃん、もう行ってもいい?)
(ええ、ありがとうね。気を付けてね)
(いや、気を付けることもないじゃろう。古き蛇もおらんようになった)
(終わったのですね、一美の戦いは)
(ひとまずはな…さて、若い者に無茶をさせてしまった償いじゃ。この年寄りがしっかり後始末をしなくてはな)
車椅子の上から、皺ばんだ細い手が伸び、倒れている一美の頭上にかざされる。オレンジ色の光が、一美のこめかみや額に吸い込まれていく。苦しげに眉を寄せていた一美の表情が、次第に和らいだ。その代わりに、老人の腕はますます細くなり、ぶるぶると震えて、やがてぐったりと垂れる。
若い女性が慌てて老人にかがみ込む。
(大丈夫ですか、不二彦様!)
(無理は承知じゃ…はは、もともとわしにはろくに能力がないからのう、奈津の力を分けて貰って、ずっとみんなをだましてきたんじゃ。このくらいは、多少命を削っても、わしがやらねばな)
一美がうっすらと目を開く。唇が動く。
(ありがとう、おじいちゃん…)
若い女性が、一美の頭を撫でながら、礼子や由起夫たち、そしてかれんを見回す。
(一美、あなたの望むようにしてあげるわ。この人たちの記憶から、今夜のことを消すわね。)
一美は、うっとりと目を閉じ、呟く。
(ごめんね亜希ねえさん。凄く力を使うんでしょ?記憶を消すって)
(ええ…こんなに大勢の人の記憶をいじるんだから、半年くらいは眠りこけるかもね。その間、私の代わりは、一美にお願いするわよ。それにね)
若い女性は悪戯っぽく笑っていた表情を引き締め、赤みがかった髪を揺らすと、天井を仰ぐ。
(あなたの望むように、あるいは私たちの都合のいいように、消せるかどうかは分からない。そして、永遠に封印することは出来ない。いつか記憶は必ず蘇る。その時は一美が、すべて責任を負うのよ)
一美は頷いた。靄が濃くなり、かれんにはもう、何も見えなくなり、聞こえなくなった。
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由起夫は、夜道を並んで歩いている父親を見上げ、尋ねる。
「ねえ父さん、超能力とか、信じる?」
多佳雄は、しきりと頭を振っていたが、苦笑して答える。
「前にも話したような気がするが…あれは秋だったのか。ああ、世の中には、どんな突拍子のないことでも、可能性のないことなんかないんだ」
話しながら、多佳雄は由起夫の背丈がまた伸びたことに気づく。いつか自分と肩を並べるだろうと思うと、くすぐったくも嬉しくなる。
「ユキ、ラーメンでも食ってくか?すっかり腹減っちまった」
かれんは、礼子の手を離そうとしない。
「ねえ…なんか恥ずかしいから、この手、やめようよ」
礼子が何度そう言っても駄目だ。
「だって、こんなに遅くに家に帰るの、初めてなんだもん。礼子に付き合って、あんな退屈な映画観たんだからね」
「しょうがないなあ…でもほんとにつまんない映画だった、何にも頭に残ってないもんね。まぁを誘わなくてよかった。怒るとまぁ、怖いからなあ」
「ふーんだ、温厚なあたしでよかったね」
かれんは膨れ面になるが、やはり手を離さない。
礼拝堂にはまた、パイプオルガンの音色が響いている。福永は朝まで弾き続けるつもりだ。自分の犯してきた沢山の罪を、それでいくばくかでも浄化したかった。修道女になった頃の想いが、堰を切ったように溢れている。こんな夜は、生涯に二度とないだろう。曲は、サティ作曲「ジムノペディ第3番」
シスター福永を除けば、礼拝堂に残るのは、成瀬不二彦と忍冬亜希、そして鳴滝一美と花宮雅子だけだ。
雅子は、一美の手を握ったまま、眠っている。深い眠りだった。
(まぁを眠らせたのは、亜希ねえさんなの?)
(いいえ…この子は、身体と心の痛みで自分から眠りに就いたの。自分を怒り、恥じて…)
(そうじゃな、この魔女を封じ込めるほどの力は、わしにも亜希にもないわい。だがおまえにはしてもらわなければならん)
(私が?私にそんな力が?)
(あなたがその手を離さなければ、彼女は魔女を眠らせ続けると思うわ。きっと)
一美は、右手で雅子の手を掴んだまま、左手で雅子の頬を撫で、額に触れる。柔らかで透き通る少女の皮膚を通して、彼女の想念を読むかのように…
「うちが、超能力者だと知っても、そんなんたいしたことやないと言ってくれた、まぁは、消えてへん。うちはそのまぁを、ずっと守って行くよ。大切にして行くよ」
不二彦も頷いて、テレパシーでなく、肉声で告げる。
「そうだ、そんな人間は、掛け替えのない者だぞ。口幅ったいが、奈津にとってのわしだ。わしはな…奈津に惚れるまでは…なんの力も持たない、普通の人間だったのだよ。おまえにだけ明かすが、一族の血筋はわしには流れておらんのだ。奈津がわしに、力を分けてくれた。わしは奈津のために、普通の人間の暮らしを捨てたのじゃ」
「おじいちゃん!それほんまやの?」
目を見張って一美が不二彦を見つめる。照れ臭そうにそっぽを向く老人。一美には、どこかで老女が苦笑する声が聞こえたような気がした。
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