62
煙に満ちた体育館の中で、老人たちは床にしがみつき、連れ出そうとするえりかは、力尽きようとしていた。
不意にえりかの肩を、力強い手が掴み、抱きかかえてダッシュする。煙の幕を突き破り、えりかの肺に新鮮な空気が流れ込んだ。その甘美さに陶然とするえりかの前に、老人たちが次々と運ばれてくる。
「ありがとう!あなたたちは?」
えりかは感謝の涙を滲ませながら、救出者を振り仰いだ。三人の男たちが、汗で顔を光らせていた。
とりわけ長身が目立つ一人は、麻田かれんを抱きかかえて、校庭に下ろすところだ。よれよれのブルゾンを着て、えりかを振り返る痩せた顔は、四〇代半ばくらいの雰囲気である。人の良さそうな目がえりかを見つめた
「お嬢さん、鳴滝一美さんがどこにいるか、知りませんか?…私は、唐沢という私立探偵で、木更津から、一美さんと、この、かれんさんを探しに来たんです」
えりかは、どう答えたらいいか迷い、途切れ途切れに言う。
「一美さんは…まぁ、という…人のところへ、行ったと、思います」
その言葉に、他の二人が緊張した表情になる。一人は長髪を首の後ろで束ねた青年。細身で秀麗な顔立ちだが眉が太く、浅黒い精悍な表情だ。もう一人は、頭を青く剃り上げ、修行僧の雰囲気を漂わせる三〇代の男。中肉中背で顎が張ったいかつい顔立ちである。
「じゃあ、テレポートしたのか、一美は」「それで急に気配が消えたのだな」
えりかには分かった。この二人が、一美と同族であることが。
長身の男は仰天した表情だったが、瞬時に顔を引き締め、背後の山を見上げる。同時に谷を震わせて、獣の咆哮が轟いた。えりかは戦慄した。
「狼!まさか、そんな…いまはもう、いない筈の」
引き続いて、炒るようなおびただしい銃声が弾ける。猟銃などではない。凄絶な殺気に満ちた戦闘の音だった。えりかは立ち上がった。
「止めなきゃ!」
男たちが止める間もなく、えりかは校庭の隅に停めていたバイク・セローにとびつき、付けたままのキーをONにすると、セルスターターを押す。ハンドルに掛けてあったヘルメットを投げ捨て、スロットルを開く。ダートに後輪を滑らせ、前輪を浮かせながら、セローは猛然と銃声の方角へ走り始めた。
「Nはビースト化したぞ」
おぞましげに、ショットガンの男が双眼鏡を見ながら呟く。アーサーもまた、目に双眼鏡を当てながら唇を噛む。
「そんなことは予想できた。だが、なんだ、天使どものざまは。なぜ同士討ちをしているのだ」
標的・Nを包囲攻撃、捕獲するはずの兵士たちは、狂乱し、お互いに撃ち合って死傷している。その隙をついて、Nは兵士たちを一人ずつ襲い、爪と牙で血祭りに上げていく。アーサーは歯噛みして怒鳴る。
「スナイパー!ここからでも届くはずだ。Nの足を止めろ!」
ショットガンの男の後ろには、五名ほどの男が、それぞれ銃を手にしていた。太く長い銃身のライフルを持った一人が、銃を持ち上げ、スコープを覗くが首を横に振る。
「ビーストの動きが速すぎる」
アーサーは双眼鏡を下ろし、デミオのグローブボックスに手を突っ込んで、拳銃を取り出した。ベレッタ・モデル92ブリガーディア。スライドを動かして薬室に銃弾を装填し、獰猛な表情で足を踏み出す。
「天使どもを援護する。GO!」
63
魔王には二つの誤算があった。
一つは、敵の兵士が、半世紀前には考えられなかった防護服=ケプラーとセラミック、チタン複合のボディアーマーを着ていたことだ。一撃で致命傷を与えるつもりだった爪や牙が妨げられ、一人を倒すのにひどく時間がかかる。しかし、狼群の幻影を見せ、目に映る味方を狼だと信じ込ませて同士討ちをさせる作戦は成功し、魔王が直接手を下さなくても、兵士たちは壊滅に至るはずだった。
ところがそれを、二つ目の誤算が覆したのである。
道とも言えない斜面に挑み掛かり、荒れ狂うセローの車体を細い腕と身体で制御し、ついにえりかは転倒することなく、駒峰の城跡に到達した。お互いを撃ち合う重装備の兵士たちのただ中に、セローは突っ込む。
銃声が一瞬でやんだ。兵士たちのほぼ中央にセローを投げ捨てるように倒し、えりかは岩によじ登って両手を広げる。
「あたしのいるところでは、鉄砲は撃てないよ!殺しあいは、やめるんだ!」
えりかの絶叫に、兵士たちは茫然と立ちすくむが、銃を離そうとはしない。しかし、いくら引き金を引こうとも、不発弾を弾き出して次の弾を装填しようと、銃は火を噴かない。兵士たちの顔は、理解できない事態の連続にひきつる。えりかは、大きく息を付きながら、さらに叫ぼうとした。
その時、えりかの肩先から何かが飛び散り、えりかの身体は大きく揺れて、岩から地面に叩き付けられた。数秒遅れて、遠い銃声が届く。薄れ行く意識の中で、えりかは肩から血がシャワーのように噴きだしている事を知る。
(あたし、撃たれたんだ…銃を発火させないあたしの超能力、それが及ばないほど遠くから…)
アーサーは、まだスコープに目を接してM24狙撃ライフルを構えたままのスナイパーの肩を叩き、狂喜する。
「やったぞ!魔女のひとりをまたぶっ殺してやった。さあ、天使どもに活を入れに行くんだ。ビーストを狩るんだ!」
叫びながらアーサーは、ブリガーディア拳銃を天に向け、立て続けに引き金を絞る。ショットガンと狙撃ライフルが呼応し、谷間に銃声を轟かせた。野獣のように歯を剥いて、アーサーと配下の男たちは斜面を駆け登る。ついさっきえりかがセローで付けた轍をたどりながら。
アーサーたちの発砲に、ヘリボーンの兵士たちも目に生気を取り戻し、真の標的・N=ノスフェラトウに照準を合わせたのだった。
64
M4カービンから放たれる5・56ミリ高速弾が、俊足の魔王の影を捉え始める。何人かの銃には、40ミリグレネード発射器も装着されていて、魔王が動きを停めたら炸裂弾を叩き込もうと狙う。
戦場に突入したアーサーは、血走った目で魔王を捜した。硝煙と血の匂いが立ちこめる中、巨大な野獣は、もがく兵士を引きずり、首筋に牙を突き立てている。アーサーの横で自動式ショットガンが、立て続けに6発を発射した。一発に付き9個の鹿用散弾が込められている。54個の散弾の嵐に、魔王にくわえられていた兵士の上半身が砕けて散った。だが、魔王はわずかに数個を浴びたに過ぎない。その移動のスピードはアーサーの理解を超えている。
「モンスターめ、ビーストめ、我々は神の兵士だ。太陽の下で、負けるはずがない」
アーサーの罵声が、兵士たちに力を与えた。兵士たちの指揮官も声を張り上げる。
「目の前に奴が現れたら、思いきりフルオートで弾をぶちまければいいんだ。おまえたちは皆、グリーンベレーやシールズ、デルタフォースで鍛え抜かれた勇者だ、銃と己を信じろ!」
「緑の血の跡をたどれ。奴は銃弾を喰らっているぞ」
二十数名に減りながらも、精鋭の表情を取り戻した兵士たちは、猟犬のように地面に顔を近づけ、碧血を探しながら包囲網を再構築する。人種も年齢もかなりまちまちだが、酷薄な眼光と、職業軍人特有の、命令に機械のように反応する動きはクローンのようだ。
不意に咆哮と共に、獣の影が跳躍した。数十発の高速弾が空中を切る。碧血が霧のように舞い散る中、魔王は命令を発したばかりの指揮官の上に着地し、喉笛を踏みつぶした。魔王の手にM4カービンが数丁、束になって握られている。再び野獣の影は目にも留まらない速さで移動する。カービンとショットガン、そしてアーサーの拳銃が発砲するが、魔王のスピードは衰えない。
アーサーの熱狂した瞳に、翳りが宿る。
(ビーストの俊敏さは驚異的だ。夜しか超能力を使えないのではなかったのか。これなら、我々の包囲網を突破することなど簡単なはずだ。なぜ、逃げない?奴の狙いは…まさか)
アーサーは背筋に氷柱が生えたようにぎくりとする。ショットガンの男が目をぎらつかせて叫んだ。
「居たぞ!あそこだ。奴もさすがに走れなくなったか」
さっきえりかが登って居た、城跡のほぼ中央にある小高い岩の上に、魔王は全身を晒し、すっくと立っている。八方から銃弾が集中した。だが、碧緑色の輝きに覆われた野獣の身体は揺らぎもしない。
(サイコキネシスのバリアを張って、耐えている…何のために?…おとりか!!)
アーサーは天啓に似た確信を得て、反射的に地面に伏せた。
その瞬間、魔王に銃口を向けていた兵士たち全員めがけ、地面の中から、銃弾が発射された。アーサーの傍らでショットガンを握っていた男も、至近距離の地中から撃ちあげられた5・56ミリ弾を顎に受け、後頭部から脳漿を撒き散らしてのけぞった。敗北感に視界を眩ませながら、アーサーは心の中で喚く。
(糞ったれ!ビーストは、奪い取ったM4カービンを、地中のマタラシュウに配給し、おそらく…自分の視神経をマタラシュウの脳に連動させて、狙撃させたんだ!)
土中からの一斉射撃はすでにやみ、散発的に聞こえる銃声は、生き残った兵士にとどめを刺すものだろう。息を殺して伏せるアーサーの前に、靴をはいていない足音が近づいてくる。
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アーサーは顔を上げ、目の前に立つ巨大な野獣を真っ向から見る。遥かな先祖から受け継いだ原初的な恐怖が全身を痺れさせる。全ての抑制が消し飛び、アーサーは右手のブリガーディアを両手で握りしめ、全弾連射した。9ミリルガー弾はすべて野獣の身体に吸い込まれたがなんの効果もない。スライドが後退したまま止まった拳銃を、野獣の顔面に投げつけ、アーサーは拳と蹴りで挑み掛かる。
腕を万力のように締め付けられ、あっけなくアーサーは膝を突く。手首を掴んだ野獣の手が、みるみる人間の形になっていく。緑がかった蒼白な肌の青年が、息荒く暴れるアーサーを冷静に見つめている。
「…米国人か。そんなにも、超能力者が憎いのか」
青年の声に、アーサーは高く笑い声をあげる。
「当たり前だ!超能力者は、人間にとって怪物だ。人間は、神によってこの身体と精神を与えられた。努力と鍛練を重ねてそれぞれの能力を鍛えるのが人間だ。なのに超能力者は、ただ生まれ持った力で、易々と人間の能力を超える。何の努力もいらない。筋肉の力もいらないのだ。脳だけあれば足りる化け物だ。神によって決められた人類の進化をねじ曲げる、悪魔にほかならない。私は超能力者の全てを抹殺してやる。たとえキメラ・グループの方針に逆らおうともな!」
「キメラ・グループ…そうか、それが、この兵士たちの所属する集団か」
「早く私も殺せ!ビースト。ファシストグループもリーダーだけを生き残らせ、情報を手に入れてから殺しただろう。私は知っているぞ」
罵声を続けるアーサーに、青年は首を横に振る。
「おまえは殺さぬ。生き延びて、兵士たちを葬ってやれ。そして、私の言葉をキメラ・グループに伝えるのだ」
アーサーは絶句し、美貌の青年をまじまじと見つめる。
「敵の流す血も、味方の流す血も、キメラ・グループにとっては美味しいものだろう。私は血を飲まなければ生きてゆけない怪物だ。人間に寄生していると言っても反論は出来ない。だが、キメラ・グループの貪る膨大な血に比べれば、私を、怪物などとは呼べないはずだ」
「なにを…たわごとを言っている」
アーサーの声は、しかし、震えを帯びる。
「キメラとはよく言った。おそらく幾つもの軍需産業グループの複合体なのに違いない。伝えろ、死の商人どもへ。私の碧血は、義のために流す。この地上に戦火をはびこらせてやまない、武器商人ども、その肥え太った腹に食らいついて、腐った血を大地に川のように流してやろう!」
黒雲が頭上を覆い、暴風がアーサーの身体を翻弄する。幾つもの気配が地中から立ち上がり、魔王をとりかこんで去っていく。アーサーは、叩き付ける土くれから目を守りながら、歯がみして叫んだ。
「私を生かして置いたことを、必ず後悔させてやるぞ!ビースト!」
66
黒雲が渦巻いて、陽光を遮り、激しい風に、燃えさかる駒峰の廃校の炎が勢いを増す。
「えりちゃ…」
多恵が泣き顔になって、銃声の途絶えた城跡を見上げる。
「あの子はどうなったんだ」
唐沢多佳雄が尋ねると、長髪を束ねた青年は、太い眉を曇らせる。
「銃撃戦がいったん止んで、また始まったのは、赤石えりかの能力が失われたということだ。おそらく…彼女の命はない」
多恵が、ひっ!と叫んで泣き伏す。その肩を抱えながら、多佳雄は優しい声でゆっくりと言った。
「おばあさん、探してきますよ。きっとえり?ちゃんを連れてきます。ここで待っていて下さい」
不意にかれんが立ち上がり、指さしてつぶやく。
「ああ…あるじ様が行ってしまう…あたしも、連れていって!」
ふらふらと歩き始める少女を、スキンヘッドの男が抱き留め、掌で額を掴んだ。かれんの身体は、そのままそっと草地に横たえられる。作務衣に似て、もっと丈夫な作りの服をまとった男は、心配顔の多佳雄に向かい、無表情に頷いた。
「眠らせただけだ。この先に踏み込むのは危険だ。おまえも、行くつもりか?」
「えりちゃんを助けに行かなくちゃならんよ」
長髪の青年が、多佳雄を見つめて、静かに言う。
「それなら、僕たちのあとに付いて来るんだ。決して前に出てはいけないよ」
多佳雄は頷くが、これだけは、と言う雰囲気で尋ねる。
「あんたたちは、なんと呼べばいい?呼び名くらいは教えてくれ。咄嗟の時に困る」
二人は顔を見合わせたが、青年の方が少し笑顔になり、答えた。
「僕は、トオル。こっちは、蔵人。」
「くらんど?凄い名前だな」
3人は廃校の校庭から、城跡目指して斜面を登り始める。スキンヘッドの蔵人が先頭で、目を細めて前方を伺い、やがて背中を丸めて右手をトオルに振る。トオルは多佳雄に振り向いて言う。
「伏せて下さい。物騒な罠が仕掛けてある」
多佳雄が素直に地面にへばりつくと、蔵人は、拾った小石をアンダースローで投げた。
いきなり爆発音が湧き、小石の落下した場所に爆風が横殴りに叩き付ける。多佳雄は唖然とする。
「クレイモア…指向性地雷、か。ベトナムやアフガンじゃあるまいし、なんてこった!」
67
「えりちゃんは、なぜこんなヤバいところを、バイクで走れたんだ?」
多佳雄の質問に、トオルはさらりと答える。
「彼女は、自分の回りに特殊な磁界を作ることが出来たんだよ。その範囲の中では、マッチもライターも火薬も発火しない。彼女が認可したものだけが発火できる。地雷も銃も火を噴かず、ただセローのエンジンだけが回っていたのさ」
言葉を交わす間にも3人は歩みを停めず、やがて剥き出しの斜面にセローが轍を付けている場所まで出た。蔵人は細めた目をかっと開き、城跡までの轍を見透かしていたが、やがて頷く。
「もう、罠の赤外線やワイヤーはないようだ」
するすると急坂を登っていく蔵人とトオルに、多佳雄は必死で付いていく。火薬臭さと共に、血の臭気も濃くなっていく。横殴りの風に、航空燃料の燃えるガスも吹き付けてきた。
辿り着いた山上で、多佳雄はあまりの無惨な光景に、しばらく声も出ない。のどを食いちぎられ、ヘルメットを砕かれ、そして銃弾で貫かれて、累々と外国人らしい兵士の死体が転がっている。
「これは、訓練や事故じゃない…どう見たって戦闘だ。どうしてこんな場所で?」
その時、トオルが遠くから声を投げてきた。不思議なことに囁き声だったが、多佳雄にははっきりと聞こえた。
「赤石えりかがいたよ。かなりの出血だが…生きてる!」
その声に、多佳雄の身体は凝固を解かれ、長い足を力強く踏みしめて走り寄る。蔵人とトオルは、倒れていた娘の身体を抱き起こし、躊躇無く衣服をナイフで切り裂いて、傷口をあらわにした。えりかの裸の右半身が真紅に染まっている。右の肩を銃弾が貫いたようだ。
「肺は大丈夫だ。血を止めれば、助かる」
二人がてきぱきと応急手当をするのを、多佳雄はただ見守るしかなかった。やがて、包帯を巻き終わる頃、蔵人が立ち上がり、鋭い眼光を遠くに投げる。トオルも緊張した眼差しで並んだ。多佳雄が同じ方向に目を向けると、一キロほど離れた峠に黒い雲がへばりつき、急速に遠ざかっているのが目に入った。
「魔王は、あの雲の中だな」「ああ…魔多羅衆が棺を担いで、谷と峰を繋いで行くのだ」
「追うぞ!」「おう!」
トオルが足を踏み出し、蔵人が続く。多佳雄は慌てて叫ぶ。
「待ってくれ!えりちゃんを放っていくのか!この仰山な死体は、どうするんだ!」
振り向いたトオルは、足を止めずに、例の不思議な囁きを投げてくる。
「死体は、あと少しすれば、ヘリが収容に来る。だがその前に、あなたはえりかや他の人たちを連れて、脱出しなさい。面倒なことになるから」
「そんな!手伝ってくれてもいいだろう!僕一人じゃ…」
「大丈夫、あなたなら出来るよ。都会よりジャングルが向いている、探偵さん!」
明るく、どこか笑いを含んだ声を残し、トオルの姿は、樹海の中に消え去った。
「とほほ…って、こういうときに使うんだよな…」
情けない顔になりつつ、多佳雄は既に、えりかを肩に担ぎ、乗ってきたレンタカーのパジェロ目指して、力強く歩き始めた。
68
以前、確かにこの老人には会っていると確信しつつ、礼子は、成瀬家の当主・不二彦の皺に埋まった小さな顔を見つめる。
「沢渡礼子さん、じゃったな。そうか、思い出したかのう…」
「うちの学校の礼拝堂で…アキという女の人と一緒に…」
礼子が呟くと、不二彦老人は、車椅子の上で微笑む。
「あの時も…一美が世話を掛けておった。またしても、とんでもないことに巻き込んでしもうて、申し訳のないことじゃ」
成瀬家の広間は、天井が高く、よく声が響く。中央には、移動式のベッドが据えられていて、鳴滝一美が死んだように眠り、枕元に成瀬奈津が椅子に座って、慈しみの表情で少女の手を握っている。礼子は車椅子の不二彦と向き合って、テーブルに付き、その横には津村沙世子が静かに並んでいた。
「本当に、馬鹿な子…あれほど言ったのに、自分の使命を忘れて、あろうことか、カーリー・マーを覚醒させてしまうなんて」
奈津の声は苦渋に満ちていたが、同時に一美への限りない愛情を感じさせた。
沙世子が、きっと頭をもたげ、鋭く奈津に問いかける。
「カーリー・マーと、おっしゃいましたね。それは、かつて花宮雅子だった人間の事ですか?」
「ええ…ヒンドゥーが語り伝える黒い母、血を求めて止まない破壊の暗黒女神。あの雅子という少女の魂には、そう呼ぶしかない、闇のエネルギーが秘められていました。一美は、その存在を目覚めさせないために、親友として寄り添っていたはずでした」
奈津という老女と沙世子の会話を聞きながら、なぜか礼子は、二人がひどく似通っていると思った。一美と沙世子が従姉妹のような印象を受けるのだから、当然かも知れないが、二人とも誇り高く、強いけれど孤独で…
「まぁ…蘇った花宮は、中学時代の意識のようでした。西浜中学のときに執着していた、サヨコ伝説の事を喋り、西浜の制服を着て、去っていきました」
「魔王の青い血によって蘇った死者は、完全に生前通りではいませんからね。もっとも強く縛られていたことにこだわり、その願いの達成のために、青い血によって得た強い力を揮うのです」
沙世子が青ざめ、唇を噛む。
「花宮は、いままでのサヨコを全て呑み込んでやると言って…自分のお兄さん、3番目のサヨコだった彼の血を飲み尽くしました…玲や、佐野先生、黒川先生が、危ない!」
「津村さん、お願いします。カーリー・マーの跳梁は、わたくしどもの責任で断固、阻止しなければなりませんが、あなたのお力が、必要です」
奈津が、深々と頭を下げる。沙世子もきっぱりと頷いた。
「玲たちには、私からいますぐ連絡します。パソコンをお借りできますか?」
「ええ…」
奈津は、ベリーショートヘアの秘書を呼び、ノートパソコンを持ってこさせる。キーボードに向かう沙世子に、不意に不二彦が呼びかけた。
「津村ゆりえさんは、息災か?」
69
パソコンを起動させながら、沙世子は老人を振り返り、目を見張る。
「おばあちゃんを…祖母をご存じなのですか?」
老人が頷くと同時に、老女が僅かに表情を崩す。
「女学校時代の、親友でしたのよ。わたくしと、津村ゆりえさんと、もうひとり、赤石セイさん。もう…会えなくなってずいぶん経ちますけどね」
「祖母は、心臓が弱って入院していますけれど、容態は安定しています。しばらくすれば退院できると思います」
淡々と語る沙世子の横で、礼子は我慢できずに疑問を口にした。
「津村さんのおばあさんも、超能力者…鳴神一族の人なのですか?」
複雑な顔色で沈黙した沙世子に比べて、奈津はまっすぐに礼子を見つめ、笑みすら含んで答える。
「わたくしどもの血縁ではなくてよ、ゆりえさんは。でも、力は持っていらしたわ。それは、沙世子さんが受け継ぐことになったようですわね」
ちらりと沙世子に目を向けたあと、奈津は礼子に向き直り、立ち上がってテーブルの上のティーポットを手にする。
「こうなってしまっては、礼子さんには、ちゃんと説明をしないと申し訳が立ちませんね。長いお話になりますから、お茶を飲みながら、聞いて下さい」
ウェッジウッドのティーカップに、湯気を立てたアールグレイが注がれ、礼子と沙世子に出される。沙世子は礼を言って、液晶画面に見入り、キーボードを打ち始めた。礼子は紅茶の香りに少し胸が晴れるように思いつつ、奈津の声に聞き入る。
「鳴神一族、という言い方は、わたくしどもではしませんが、一族を知っている、よその人たちは必ずそう呼ぶようです。もう、一二〇〇年ほど前になるのかしら、一族がこの国へ渡ってきたのは…わたくしどものご先祖は、雷神ルドラを信仰する一族だったそうです。そして一族の主立った者は、天から雷を呼ぶことが出来ました。いかづちの槍で敵を打ち倒し、日照りの時にも雷雲で雨を招くことで、人々からは怖れられ、かつ、頼りにもされていたと言います。
その時代には、そんな超常的な力を持った血族は、わたくしどものほかにも、幾つかあって、神話の時代を形作っていたのですわ。そんな中に、魔多羅衆と呼ばれる者たちもいました。わたくしどもと非常に近い血を持っていて、この国に渡ってくる前は同じ一族だったかも知れません。彼らはわたくしどもよりも、少し後にやってきて、シヴァ神を崇め、その化身であると彼らの信じる青い血の怪物を、この国の王にしようとしたのです」
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「わたくしどものご先祖は、魔多羅衆と戦い、青い血の怪物を倒しました。以来、魔多羅衆はわたくしどもと仇敵になりました。青い血の怪物は、歴史の中で幾度か蘇り、五十七年前に現れたときは、わたくしも戦ったのです。そして、怪物を信州・伊那谷の山懐のお寺に封印しました。けれど魔多羅衆は諦めなかった。ついに今年、集中豪雨を起こして、封印されていた棺を出現させた。その場に、血の生け贄として魔多羅衆がさらっていったのが、麻田かれんさんでした」
「いけにえ…!」
礼子の顔がひきつる。沙世子がちらりと液晶画面から奈津に視線を向ける。
「一美は、麻田さんを追い、そうと知らず、青い血の怪物の元へ向かったのです。わたくしどもはそれを知り、援助の戦士を送りました。けれど、怪物の復活を知ったのはわたくしどもだけではなかった。礼子さん、あなたと一緒にここへ来た、アーサー・マケインという人…」
「アーサーは、あたしの父の弟子で、あたしがかれんと一美さんを捜してと依頼して…」
礼子の説明を、軽く首を振って遮り、奈津は続ける。
「彼は、長く、わたくしどもや、花宮雅子を監視していたのです。彼の属する探偵事務所は、ある外国企業が出資して作ったもの。キメラ・グループという名前を聞いたことがありますか?」
礼子は首を傾げたが、沙世子は眉を曇らせて、低く呟いた。
「航空機や、化学、電力、精密機械、幾つもの会社が統合して急成長した、アメリカの企業グループですね。ほとんど日本では知られていないけれど、軍需部門ではトップになりつつあるとか」
「その通りです。そして、キメラ・グループは私に軍隊を持ち、世界各国で行動させるほどの力を持っています。彼らは、青い血の怪物の存在に、前から注目していて、捕らえるために部隊を伊那谷に派遣しました。アーサー・マケインは、それと連動して、伊那谷に向かったのです」
「かれんは、どうなっているんですか?無事なんでしょうか…」
礼子が、ためらいがちに口を挟む。
「まだ、伊那谷からの報告はありませんが、さっき一美の意識に触れたところでは、どうやら無事でいるみたいですよ」
奈津の口調に、わずかに苦渋が滲み、反射的に沙世子が奈津に鋭い視線を向ける。
「一美もおばあさまも、かれんさんにはほとんど関心がないんですね」
奈津が沈黙し、気まずい雰囲気に、礼子は慌てて発言する。
「そんなことないよ。一美はかれんを探すために、雨の中に飛び出していったんだよ」
奈津が、唇を噛んで沙世子に向き直る。
「おっしゃるとおりよ、沙世子さん。さすがにゆりえさんのお孫さんだわ」
「鳴神一族と、キメラ・グループの関係も教えていただけませんか?」
緊迫した口調の沙世子に、奈津は、柔らかく微笑した。
「お若い方は、せっかちなのですね。少し落ち着いてわたくしの話を聞いて下さる?…でもそんなところ、本当に、ゆりえさんの女学生時代を思い出すわ」
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奈津は、一口、紅茶を含んで、深く溜息をつき、話を続ける。
「因縁…と言うほかはないようです。魔多羅衆は、目覚めた青い血の怪物に飲ませるために少女をさらいました。健康な乙女なら誰でもよかった筈。それが偶然に飯田駅に寄った聖アガタ女子学院の生徒で、一美の友達だったなんて。そして一美が、青い血を伝達して、カーリー・マーを出現させてしまうなんて…」
沙世子の顔が青ざめる。
「待って下さい。魔多羅衆は、シヴァ神を信仰していて、青い血の怪物は、その化身だと、さっき…じゃあ、まぁは」
「そうです。カーリー・マーは、シヴァ神の妃です。怪物と暗黒女神は引き合い、合流しようとするでしょう。二体が揃ったら、恐るべきパワーを発揮するに違いありません。いったいどんな災厄が巻き起こるか、想像も出来ませんわ」
沈黙が部屋に満ちた。奈津はうつむき、沙世子は愕然としている。礼子にはまるで現実感のない話の連続で、頭の中が整理できない。
不意に、ノートパソコンが、小さな信号音をたてた。沙世子が我に返り、液晶画面を見る。
「…ああ、玲は無事だわ!メールの返事が…。黒川先生も!…携帯やパソコン、家の電話のファクス、全部使って、玲と黒川先生、佐野先生に連絡したんです」
嬉しそうな沙世子の声に、礼子は立ち上がって画面を覗いた。
…久しぶりだね!沙世子(^^)こんな時間にどうしたの??またあとでメールするよ!
今日も元気な玲だよ
…ええと、メールなんて慣れないんで、どう返事したら…って、授業中だぞおまえ!とりあえず僕は元気だ。津村はどうなんだ?
黒川
「よかった!よかった!」
涙ぐみそうになって笑っている沙世子の表情には、今朝最初に会った時の不吉なまがまがしさがかけらもない。礼子は、初めて沙世子に親しさを感じた。
「カーリー・マーは、その方たちを襲う可能性が強いのですね?」
奈津が厳しい顔で問いかけると、沙世子は表情を引き締めて頷いた。
「まぁがサヨコ伝説に囚われているのなら、その筈です。…けれど、まぁが事故死しなければ、青い血によってカーリー・マーに変わることもなかったんですよね。まぁの死はやっぱり…」
思わず礼子が口を挟んでいた。
「唐沢という探偵さんが言ってたわ。まぁをはねた車を運転していたのはアーサーらしいって」
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奈津は沈黙する。その時、それまで眠っていたかに思えた老人・不二彦が、車椅子の上で頭をもたげた。
「奈津…もったいぶって隠しても仕方あるまい。このお嬢さん方には、何もかも話そう」
どことなくのんきで朗らかな不二彦の声と対照的に、奈津は沈鬱な顔になり、重い口を開く。
「わたくしどもは、花宮雅子の事故が、計画的なものだったと知っていました。いいえ、わたくしどもが流した情報をもとに、キメラグループのエージェントが作戦を立て、アーサー・マケインが実行者として花宮雅子を車ではねたのです」
「情報を流した?どこに流したのです?キメラグループに直接にですか?」
沙世子が畳みかけるように尋ねる。奈津は唇を歪め、ため息と共に言葉を吐く。
「ゆりえさんから聞いているでしょう。わたくしどもは、非公式に政府機関から依頼を受けて仕事をしています。この国の安全を守るためのセクションと密接な連絡を取り合って…」
「つまり、まぁを国家権力と死の商人に売ったのね!」
沙世子が憤然と椅子を蹴って立ち上がる。再び怒りが少女の顔を紅潮させていた。
「あまりにも危険すぎたのです、あの花宮雅子は。それはあなたもわかるでしょう!」
奈津もまた、強い意志の力を目にみなぎらせる。
「鳴滝を…一美を、信じていれば良かったのに。彼女が一緒にいる限り、きっと、まぁは…ずっとまぁのままでいたのに!」
沙世子が、歯を食いしばり、痛恨の叫びを絞り出す。礼子は、沙世子の瞳から、涙が溢れるのを見て、息を飲んだ。
「鳴神一族にも、魔多羅衆にも近づいては行けない、祖母は私にそう教えてくれました。幼い頃の私にはそれは不満だった。同じ力を持った者なら、友達になれると思った。でも、そのうちに分かりました。同じ力を持っていても、生き方は全く違うのだと。カーリー・マーを出現させたのは、あなたたちだわ!一美は…一美も、あなたたちの、犠牲者なんだわ!」
沙世子は激情のままに腕を振り回し、涙を振り払いながら、部屋を出ていこうとする。礼子は慌てて立ち上がる。
「津村さん!待ってよ」
老人の、悔恨に満ちた声が沙世子の背中に響いた。
「ゆりえさんのお孫さん、あんたの言うとおりじゃよ。わしら、汚いオトナのねじ曲がった邪心が、カーリー・マーを呼んでしもうたのじゃろう。わしら…鳴神一族は、時の権力に取り入って、飼い犬みたいになって生き延びてきた。じゃがこれでも、責任をとる覚悟くらいはあるんじゃ」
沙世子は一瞬振り返り、鋭い視線を老人と老女に浴びせながら言った。
「連絡は取ります。私の連絡先は、そのノートパソコンに入れておきました。でも、今日は失礼します!」
磨き上げた廊下に叩き付けるように革靴の音を響かせ、怒れる少女は、風のように去っていった。礼子はそのあとを追うしかなかった。一美はベッドの上で、昏々と眠り続けている。
73
物陰に隠れて頭を抱えていたスナイパーから、狙撃銃を奪い取り、アーサーは遠ざかる黒雲の下を狙う。レパード・ウルトラM3×10スコープの中に、巨大な石棺を担ぐ数人の人影が映る。顔も性別もわからないが、精気に満ち、嬉々としている。歯噛みしてアーサーは発砲した。7・62ミリ弾はどこに着弾したのか、誰一人傷つけることもできなかったのは確かだ。雨に打たれながら、石棺は着実な足取りで峰を運ばれて行く。
怒りと無力感に身を震わせてスコープを覗き続けていたアーサーは、視野の中に、意外な者を見つけて口を開ける。長身長髪の若者と、がっちりした修行僧のような男が、魔多羅衆の200メートルほど後ろを追尾して行く。
「ナルカミ一族の戦士か。今頃出てきたか、役たたずめ!」
アーサーは長髪の若者の頭に狙いを付ける。アーサーの腕でもなんとか命中可能な距離だ。心底引き金を引きたかったが、アーサーはかろうじてその欲望をねじ伏せ、デミオに駆け戻る。
「あいつらが追跡してくれる限り、ビーストとマタラシュウの行方は分かる。それまで、生かして置いてやる」
パジェロの助手席に赤石えりかを乗せ、これも意識のない麻田かれんを後部座席に横たえると、唐沢多佳雄はほとんどへたり込みそうに消耗していた。
「汗を拭いて、これを飲みなんしょ」
老人たちの中で、一番元気そうな多恵という女が、どこから持ってきたのか湯飲みを渡してくれる。中には清水が湛えられていて、飲み干した多佳雄はその旨さに目が覚めた心地だ。
「ありがとう、多恵さん。さあ、みんなも乗って!」
多恵は、静かに笑いながら、首を横に振る。
「わしゃあたちのことは気にせんでいいんだに。ずうっとここで暮らしてきたんな。山崩れがあっても、大雪に閉じこめられても、じいっと我慢してな。大丈夫、行っておくんな。わしゃあたちはうちに戻って、おまんまをこさえるで」
見ると、老人たちは既に自分たちの家を目指して、曲がった背中を見せながら去っていく。多佳雄は唖然として見守る。多恵もまた、背中を向けかけて振り返った。
「あんなあ、気になることが一つだけあるんな。役場から、わしゃあたちの面倒を見に来てくれとった南原さんが、ずうっとどっかに行ったまんまな。あのマタラシュウとか言う衆が連れてったような気がするんだけど。なんでずら?」
「わかり、ました。役場に、伝えておきましょう」
「じゃあ、気を付けてな」「…はい。多恵さんも」
多佳雄はパジェロのエンジンをスタートさせる。駒峰の廃校と城跡から立ち上る煙は、通り過ぎていった黒雲と雨に鎮圧されて、ほとんど消えていた。
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