その7

 

 

 

 

 

 その7・七夕の死闘

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 日曜の朝。

(今日は七夕なんだ。でも、この空模様じゃ、夜になっても星は見えないだろうな…)

 由起夫は、店内に運び込んだ鉢植えや花束のバケツを避けながら、ドアに辿り着き、シャッターをあげる。灰色の空を背にして、一人の少女が立っていた。長い黒髪に、白い服。見た瞬間、由起夫の背中に、異様な感覚が走る。不吉な、死の死者を思わせるシルエット…

「だれ?」

震える声で訊ねた由起夫に、少女は、ゆっくりと、答えた。

「赤い花を…そうね、赤い薔薇を下さい。たくさん。花束にして」

 少女が少し首を傾けたので、その整った容貌が由起夫の目にはっきりと映った。驚いて少年は叫ぶ。

「沙世子!…津村さん!いったいどうしたの」

「由起夫君、お久しぶり。懐かしい人に会わなくちゃならないの。頼むわ、赤い薔薇を」

大輪の花が咲きほころぶような、沙世子のあでやかな笑顔は、三年前と変わらない。だが、彼女の全身に滲む、不吉な影はいったいなんだろう…由起夫は戦慄しながら、身体は自動的に花を包みに動いていた。彼が作業をする間も、沙世子は店に入らず、庇の下で佇んでいる。

「赤い薔薇、このくらいでいいかな…」「ええ。充分」

 できあがった花束を渡すと、沙世子は微笑み、財布を開けて一万円札を取り出す。

「うわ、ちょっと待って、お釣りあるかなあ…」

「いいの。こんな早くにご迷惑だったでしょ。とって置いて」

沙世子は背中を向け、暗い雲の下に歩みだした。由起夫は慌てて追いかけようとして、足元のバケツをひっくり返す。

「…何のおと?ユキ…」

店の奥から、母親の眠そうな声が聞こえるのを無視して、由起夫は表に飛び出した。しかし、沙世子の姿は、もうどこにも見あたらない。白いセーラー服の後ろ姿を思い浮かべながら、由起夫は愕然とする。

(どうして彼女は…西浜中学時代の制服を着ていたんだ?それに…赤い花?どうしてまた、そんなサヨコ伝説を思わせるものを)

 

 携帯電話が鳴っている。礼子は、ベッドの脇に置いていたそれを掴みあげる。

「礼子?どう?調子は」

一美の声に、礼子は顔をしかめながら、起きあがる。十二時間以上も寝ていたが、疲れがとれたような気がしない。

「最悪、だけど…なんかあったの?」

「うん。沙世子の事、伝えておこう思って。彼女、夕べ遅くにこっちに着いたんやけど。自宅やのうて、西浜中学へまっすぐ行って、おばあちゃんの遺体を、校庭の隅に埋めたんや。壊れた石碑の下に」

「ひとりで、勝手に…だよね?」

「土曜の夜中やし、学校には誰もいいひん。それから、自宅に戻って、今朝、ついさっき花を買いに行ったそうや。ジョリ・フルール言う店で、赤い薔薇をこうて、また西浜中学へ無断で入って、玄関に活けたって」

「それって…どういう意味?」

「わからへん…それで、礼子に頼みたいんや。まぁや沙世子の中学時代の友達に、赤い薔薇や校庭の碑のことを、聞いて貰えへん?」

 

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 礼子は眉間に皺を寄せて、訊ねる。

「沙世子とは、話が出来ないの?」

「携帯も、家の電話も、鳴らへんようになってん。テレパシーで交信しよ思ても、受け付けてくれへん…」

 

 カーテンを閉め切った部屋に、一本の蝋燭。

 沙世子は籐の椅子に寄りかかり、目を開いて、火を見ている。窓の外から、時折細く、犬の遠吠えが響く。

 椅子の横のカーペットに、巨大なジャーマンシェパードがうずくまっていて、澄み切った黒い瞳で、沙世子をひたむきに見守っている。沙世子の白い手が垂れ、シェパードの頭を撫でた。

「アール、長い間、私の友達で居てくれたね。ありがとう。今夜、私は戦う。生まれて初めて、相手を殺すために。そんなことが出来るのかどうか、私にも分からない。おまえの牙の力を借りないと、私は戦えない。戦いは、これで終わりにしたいの。力を貸してね、お願い」

シェパードは沙世子の手の感触に、至福の表情で目を細めていたが、その言葉を聞いて、短く、ウオン!と吠えた。引き締まった全身に闘志が漲り、シェパードはまるで狼のように精悍に見えた。

 

「そうですか…玲さんは、アメリカにホームステイに…」

潮田玲の弟だという少年は、礼子の電話に快く応じ、ホームステイ先の電話番号を教えようかと申し出てくれたが、時差を考えて礼子は怯んだ。

「ええと…玲さんのお友達で、その、サヨコ伝説とか、赤い花の意味とか、知っていそうな人、いませんか?」

我ながらめちゃくちゃだと思い、冷や汗を額に感じつつ、礼子はしどろもどろに言葉を繋ぐ。

「ああ、それなら、秋兄ちゃんが詳しいと思うよ…兄ちゃんは今日は…ジョリ・フルールに行ってるかな」

「え?」

電話の向こうから、突然聞き覚えのある名前が響いて、礼子は息を飲んだ。

 

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 一美は、淳一たちと一緒に動いて、カーリー・マーの行方を追うのに忙しいらしかった。礼子は一人で、ジョリ・フルールという花屋へ向かった。正午近くになっていた。

 店の主らしい四〇代の女性が、馴染み客らしい老婦人に、にこやかに応対している。美貌で清潔感の漂う彼女の雰囲気通りに、店もまた瀟洒で魅力的だ。

 老婦人が墓参り用らしい花束を抱えて去ると、臙脂色のエプロンを付けた店主は、礼子に笑顔を向ける。

「いらっしゃい。お待たせしちゃいました?」

「いえ…あの、関根秋さん、こちらにいらっしゃいますか?」

「あなたは?」

店主の目が、品定めをする視線に変わる。直感的に礼子には分かった。彼女は関根秋の母親だ。

「沢渡っていいます。聖アガタ女子学院の2年生です」

「聖アガタっていえば…まぁちゃんの通ってた…」

「はい、まぁ…花宮さんとは親友でした。彼女の、中学時代のことを聞きたくて、それで」

店主は気の毒そうな表情になり、頷いて店の奥に向かう。その時、横手から背の高い少年が、店主と同じ色のエプロンを付けて出てきた。

「あ、ユキ、秋はどこにいるの?」「兄ちゃんなら、相変わらず二階でパソコンいじってるよ」

会話しながら、少年は礼子と視線を合わせる。礼子は目を見張る。

(この子は…美緒の事件の時、居た!唐沢探偵の息子さんで、まぁが、中学の時つきあっていた、ユキ!)

 

 二階の洋間に通されると、すぐに母親が、オレンジジュースを運んできた。由起夫が受け取り、テーブルにグラスを並べる。デスクトップ型パソコンの画面に向かっていた少年は、プログラムを閉じて、礼子に顔を向けた。長い睫と黒目の大きさが目立つ顔立ちは、母親似である。弟の由起夫はもっと細面だが野性的な雰囲気があり、こっちは父親の方に似ているのだろう。

「…なんで今頃、サヨコ伝説、なの?あれはもう、終わったんだよ」

たどたどしく語った礼子の質問を聞き、関根秋はぶっきらぼうに口を開いた。由起夫の方は、礼子の顔を見つめてさっきから何度も首を傾げ、何かを思い出そうとしているようだ。

「津村沙世子さんにとっては、まだ終わっていないみたいです」

礼子が意を決して喋ると、由起夫があっ!と叫んだ。

「沙世子、今朝、赤い薔薇を買いに来たよ!」

秋の顔色も僅かに変わる。

「今日は…七夕だよな。夜に、サヨコが碑の前に現れるって言い伝えがある…」

 

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 校門の柵。もちろん鍵が掛かっている。とん、とジャンプして乗り越える。制服のスカートが翻り、優雅に少女は着地する。同時に3頭の大型犬が、やはり苦もなく柵を飛び越して、校庭の砂に爪をめり込ませて立つ。夕暮れ、雲間から覗いた夕陽に、少女と犬たちの影は、長く伸びている。

 西浜中学の制服を着た津村沙世子は、しばらく空を仰いで佇んでいたが、やがて生徒用の玄関に向かう。おびただしい靴箱の並ぶ、無人の空間の突き当たりに、掲示板があり、その手前の机に、沙世子は今朝、赤い薔薇を活けた。

 その花瓶は粉々に砕かれて、ガラスの破片が机と床に散らばっている。沙世子の唇が、きゅっと曲がり、冷笑が浮かぶ。革靴のまま、沙世子は廊下を進む。並ぶ教室の入り口に、たくさんの赤い薔薇が、逆さにぶら下がっている。画鋲で貼り付けられているのだ。沙世子が花瓶に挿した全ての花が、逆さ吊りにされている。

 それを横目で眺めながら、沙世子の美しい唇から、ふふ、と忍び笑いが漏れた。護衛の3頭の犬たちは、低くうなり声をあげ、ぶら下がる薔薇の匂いを嗅ぐ。

「私の挑戦状を、見事に受け取ってくれたというわけね。じゃあ、あとは、友情の碑の前で待つだけだわ」

 高く靴音を響かせ、長い髪をさらさらとなびかせて、沙世子は足早に歩み去って行く。

 

 雑踏の中で、鳴滝一美は携帯電話を耳に当て、礼子の声を聞いている。

「つまり、赤い薔薇も校庭の碑も、サヨコ伝説のアイテムなのよ。3年に一度選ばれて鍵を渡されるサヨコ。まぁのお兄さんは三番目のサヨコだった。そして津村さんのおばあさんは、サヨコ伝説を生み出した人だったかもしれない。津村さんは六番目のサヨコで、選ばれなかったまぁは、津村さんを憎んで妨害をした。最後には、校舎が燃えて、津村さんは危うく死ぬところだった…そして今も、まぁと津村さんの、サヨコを巡る感情は消えていないのよ。津村さんは、だから、まぁ…カーリー・マーを、校庭の碑の前に呼び出すつもりなんだ」

ほとんど絶叫している礼子の声。一美は唇を噛みしめる。

「あいつ、一人で、マーと決着付けるつもりなんか。昔から、そう言う奴やったけど…わかった。すぐに西浜中学へ行く。でも、礼子は行ったらあかんで」

「そういうわけにはいかないよ。それに、ユキ…唐沢君ていう、まぁの彼氏だった子が、何か感じ取ったらしくて、行くつもりみたいなんだ」

 

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 白くたおやかな手が、砕けた石碑を撫でる。雑草が生い茂った校庭の隅で、美しい少女は宵闇に一人、静かに語り続ける。

「サヨコを始めたおばあちゃんが、今、ここに眠るのね。私と同じ名前の、二番目のサヨコと共に…六番目で、サヨコは終わった。それまでに、サヨコに思いを託した生徒の数はいったい何人…そのみんなが、私に力を貸してくれる。私は、負けない…」

 不意に、雑草の中に、青く燃える獣の目が立ち上がった。低く太いうなり声が、地面を揺るがす。三頭の巨大な犬は、さながらケルベロスのように凶暴な眼光を発し、沙世子を守ってトライアングルを作った。

 おびただしい鳥の羽音が、校庭の上空を覆う。僅かな残照を黒い翼が隠し、数千羽の鴉が旋回し始めた。

「来た!」

沙世子が小さく叫び、まっすぐ天を見上げる。空が唸った。鴉たちが一斉にしゃがれた鳴き声をあげる。黒い翼の渦に、裂け目が走った。狂ったように羽ばたく鳥が、紅蓮の炎の塊になる。鴉たちが次々と炎に包まれ、天空はまるで火で織った巨大な旗が翻っているかのようだ。

 血の噴き出そうなほどに沙世子が唇を噛みしめる。グワアー!と怒りの声をあげて、二羽の巨大な鴉が、火の渦の中心に突進していく。たちまちその二羽も鳥の形をした火炎と化した。

 壮大な花火の火の粉のように、燃える鴉たちが散って行く。沙世子の回りにも、眼前にも、炎の尾を引いて堕ちてくる。しかし沙世子は一顧だにしない。ひたすら、天の中心、今は暗黒の空間となった空を見上げ続ける。その空の上から、小さく、しかし次第に大きく、呟きが聞こえてきた。

「…学校って、結局奴隷を作るための施設なんだよね」

「うん、一日中、固い椅子に座って、黒板に向かってじっとしている事に慣れさせる訓練所」

「そんなつまらないことを、大事に思わせようとする洗脳の場所」

「真実を知る目を、先生が潰すところ」

「目覚めようとする子供を、再び眠らせるために両親が叩き込むゆりかご」

「そのことを、サヨコはずっと言いたかったんじゃないの?」

「そうだよ」「そうよ」「そうだったのか」

「でも」

「誰も」「私がここにいることに」「気付いてくれないのです」

「私はずっとここにいたのに」「ずっとみんなを見ていたのに」

 沙世子は、髪を振り乱し、大きく目を開き、鬼神の表情になって絶叫した。

「マー!許さない!」

 

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 くすくす…と、可愛らしく鼻を鳴らす笑い声が、空の闇から降ってくる。

「みんなが私に力を貸してくれる…って、沙世子、それは思い上がりだよ。ほら、こんなにもたくさんの子が、あたしを慕ってくれている」

 校庭の砂を踏んで、忍びやかな足音が近づく。背格好も、服装もまちまちな、数十人の人間…ほとんどは若い男だが、何人かは制服の女学生もいる。共通しているのは、どんよりした生気のない瞳と、手にナイフやバットや、包丁など、武器を持っていること。

 三頭の犬が緊張と闘志を漲らせて牙を剥いた。そして、沙世子にアールと呼ばれたジャーマンシェパードが、ぐわっと吠え猛ると、十数頭の黒い影が校庭のあちこちから立ち上がり、接近する人間たちに襲い掛かる。

 悲鳴と絶叫があがり、武器を手にした若者たちは算を乱した。アールと、ドーベルマン、ボクサーの三頭も突撃し、ナイフを持った手首を噛み砕き、肩の筋肉を引き裂き、振り回すバットを避けて肘をくわえ、関節を外してしまう。その凄まじい争闘を、沙世子は青ざめながらも冷然とした表情で見つめた。

 礼子は、校舎の陰で声もなくしゃがんでいる。戦う犬たちのうなり声の凶暴さに、魂まで震え上がっている。その耳に、沙世子の凛とした声が聞こえた。

「アール、ダヤン、ロン、もういいわ。戻りなさい」

三頭の巨犬は、餌食にしていた相手から牙を放し、嬉々として沙世子の元へ走っていく。十数頭の犬たちも、うなりながら戦いをやめた。血塗れの肉塊に等しい人体が校庭のそこここに転がっている。

「マー、こそこそ隠れていないで、出てきなさいよ。あなたの手下たちは、てんで歯ごたえがないわね」

沙世子が嘲笑する。しかしその笑いは、凍り付いた。ちぎれかけた右腕をだらりと垂らし、顔も血に染めて沙世子の前にふらふらと歩み寄ってきた少女に、見覚えがあったのだ。

「そ…んな、あなたは…塔子部長!」

「死ね!サヨコ!」

濁った声で、左手にぎこちなく握った果物ナイフを振りかざす少女ののどに、ドーベルマンの牙が埋まった。軟骨がひしゃげ、気管が切断される音がした。

「ダヤン、やめて!」

悲鳴を上げる沙世子の前で、元西浜中学女子バスケットボール部長の身体は、ぐんにゃりと地面に崩れ落ちた。

 破壊された肉体を引きずりながら、武器を持った若者たちは、執念で沙世子に押し寄せてくる。護衛する犬たちは既に闘争本能の虜になり、血潮を撒き散らしながら凄惨な戦いを続けるが、何頭かは敵と共倒れになっていく。沙世子は立ちすくみ、ただ歯を食いしばるだけだ。

 その無防備な沙世子の背中めがけ、遥か天空から、流星のように火球が襲った。見守っていた礼子は、沙世子が炎に包まれたと確信し、悲鳴を上げて立ち上がった。

 だが、全身火だるまとなって倒れているのは、ジャーマンシェパードのアールだった。間一髪で身を挺して身代わりになったらしい。

 

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「アール…アール!アール!!」

沙世子の呼び声は半狂乱だ。燃える犬に抱きつき、全身を預けて炎を消そうとする。甲高い笑い声が響き、天空からの火球が乱射される。ドーベルマンのダヤンと、ボクサーのロンが必死に沙世子の服をくわえて引きずり、火球の直撃を避ける。もつれて転がった沙世子は、舌を突き出して黒こげになっているアールの顔に、涙を注ぐ。

 ついに犬群の防衛を突破して、ゾンビと化した敵が沙世子に迫った。ダヤンが長大な牙を閃かせ、真っ向から襲い掛かる。破壊の権化となった魔犬は、既に頭部から胸に掛けて、敵の流した血でべっとりと染まっている。腕でも、足でも喉笛でも、ダヤンは噛みついたら凄まじい勢いで首を左右に振る。牙の埋まった部分はぐさぐさに砕け、振り回す勢いでちぎれえぐれて、致命的な痛撃となるのだ。

 ダヤンの獅子奮迅で、ほとんど勝負は付いたかに見えた。しかし、勝ち誇り、胸を張るドーベルマンめがけ、複数の火球がミサイルのように曲線の弾道を描いて集中する。吼え声が短く炸裂したと同時に、巨大な爆炎の中に魔犬の四肢と頭部が飛び散り、瞬時に燃え尽きてしまった。

「ダヤン…」

沙世子は茫然自失している。彼女を背にして立ちはだかっているボクサーのロンは、かなりの老犬だが、不退転の姿勢だ。おびただしい火球が上空に現れた。いたぶるように、楽しむように沙世子とロンの上を旋回し、徐々に高度を下げながらスピードを速める。そして、高速の火の渦と化して降りかかる。ロンが悲愴な雄叫びをあげた。

 沙世子とロンを囲んで、半球形のまばゆい光の膜が生じたかと思うと、落下した火球の全てが弾かれ、飛び散って校庭のあちこちで火柱をあげた。ロンの横で、共に沙世子をかばう姿勢で立つ、長身の少女の姿があった。

 長い髪を首の後ろでくくり、真紅のバンダナを額に巻いた、鳴滝一美。唇を固く引き結び、白いツナギの作業服を着ている。

「なにしてんねん、戦うんや、津村!あんたが挑戦状突きつけて、タイマン張る言うた相手やろ!」

その声は決して大きくはないが、沙世子と、見守る礼子の胸にずしりと響いた。

 

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 滝のように火球が天から雪崩落ちてくる。必死に念動力バリアを張る一美の顔に、見る見る汗が噴き出す。

「無理だ、一美、避けろ!」

一美と同じ白いツナギを来た淳一が走り出て、掌をかざす。落下する火球の何割かが、見えない力線に弾かれて逸れるが、おびただしい数が一美にぶつかり、少女の姿は何層もの爆炎に包まれて全く見えなくなった。

 大火炎に目が眩み、顔を覆った礼子が、おそるおそる掌を下ろす。校庭の至る所に火柱が燃え立ち、犬や人間の遺体が松明のように燃えている。うずくまってシェパードの遺骸を抱きしめている沙世子の姿勢は変わらない。礼子に背を向けて立ち尽くしているのは淳一だ。その握りしめた手が震えている。

「一美、しっかりしろ!」

 駆け寄る淳一の前に、白いツナギの一美が倒れている。その服は焼け焦げ、何カ所か火がチロチロと燃え上がっている。

「一美!一美!」

服に付いた火を叩き消し、一美を抱き上げて淳一が叫ぶが、返事がない。礼子は我を忘れて駆け寄り、一美のからだにすがった。ツナギの服はボロボロに裂け、白い手足の肌が露出している。のけぞった一美の顔には、全く血の気がなかった。

 ふらり、と沙世子が立ち上がり、頭を抱えて髪の毛をかきむしる。幼子のように顔を歪めた泣き顔である。

「もう…やめて…私、間違っていた。アールを失って、戦いなんて、できない…」

天上から、嬉しくてたまらないと言う笑い声が降りかかる。

「そうそう、その顔よ。沙世子のそういう顔が見たかったのよ」

「部長をこんな…一美まで…、こんな、こんなことになるなんて!」

頭をかきむしっていた沙世子の手がだらりと下がり、顔を天に向けて膝を突く。流した涙と灰や血が混じり、美しかった頬はどろどろに汚れている。

「もう…やめて。まぁ…」

沙世子がそう呟いたとき、強い風が吹き、校庭の火が揺らめいた。沙世子の目の前の空間が歪んでいる。まるで複雑な凹凸のあるガラスがはめ込まれたようだ。その揺らめく異様な景色の中から、細い手が突きだし、白いソックスと革靴を履いた足が伸び、セーラー服の小柄な少女が、沙世子の前に出現した。ひざまづき、目を見張る沙世子の顎に、少女の指が掛かり、仰向かせる。

「飲んであげるよ、沙世子。あたしの血の中で、永遠に生かしてあげるから」

ボブカットのまぁ…いや、カーリー・マーの頬にえくぼが刻まれる。

 

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 愛らしい笑みを浮かべたマーの唇が、徐々に沙世子ののどに近づいていく。沙世子は全くマーのなすがままに、身を委ねている…ように見えた。

 しかし、礼子は気付いた。だらりと垂れていた沙世子の右手が、ゆっくりと持ち上がり、腰から自分の背中へと回っていく。恐ろしく緩慢な、蛇の動きのように忍びやかな動作だ。沙世子の茫然とした表情に変化はない。

 まるで右手だけが独立した別の生き物のように、セーラー服の上着の下に潜り込む。瞬間、銀色の閃光が沙世子の腰から走った。あと数センチで沙世子の首に歯をめり込ませようとしていたマーの顔が驚愕に凍り付く。そして愛らしい顔は激痛に歪み、絶叫を絞り出した。

「う…ぎゃあああああ!!」

のけぞるマーの背中に、沙世子は抜きはなった短刀を突き立てている。スカートの背中側に鞘ごと挿し込んで隠してあったのだ。刃渡り二十センチに及ぶだろうか。小さな鍔を付けた、両刃の鋭い切っ先は、深くマーの身体に食い込んでいる。

 釣り上げられた魚のように、激しく跳ね回り、マーは暴れる。両手で沙世子を突き飛ばし、身をよじって転がる。短刀が抜け、おびただしい緑の血を噴きこぼしながら、マーの細いからだが地面をのたうつ。

 沙世子の左手が、スカートのポケットに突っ込まれ、何かを掴みだした。

「ロン!」

叫びざま沙世子は這いながら逃れようとするマーめがけて何かを投げつける。黒く細い紐が伸びた。先端の錘がマーの肩をかすめて前方に落ちる。その錘に老いたボクサー・ロンが飛びつく。くわえて、電光の速さでマーの回りを駆け回り、四肢を踏ん張った。マーは膝立ちの姿勢で黒い紐で数回身体を巻かれ、両腕の自由を奪われた上、沙世子と老犬の中間で身動きがとれなくなっている。

「ぐはっ!」

黒い紐で締め上げられたマーの口から、大量の緑の血が、霧のように吐き出された。だが、マーは凄惨なその唇に、なおも笑いを浮かべる。

「騙したんだね沙世子。でも、こんなもの、なんでもないよ!」

 ちりちり…と黒い紐が焦げ始め、火が着いて、沙世子とロンめがけて走る。ロンの毛皮が発火した。見る間にその全身に炎が広がり、老犬は生きながら炎の彫像となる。だが、身悶えながら、ロンは紐をくわえた口を開かない。そして、沙世子には、火が届いていない。左手で紐を引き絞りながら、沙世子は凛然と叫ぶ。

「これは、おばあちゃんが残してくれた、魔女の武器なの。何百人もの女の髪で編んだ呪縛のロープよ。そんなに簡単に燃え尽きはしない。そして、このナイフも、おばあちゃんの形見。隕石の鉄で作った魔剣なんだから」

 マーの顔から笑みが消える。必死の形相になり、呪縛のロープを全力で引きずりながら、にじり進む。その先には、あの、歪んだ空間がある。

「逃がすかい!」

唐突に一美の叫びが炸裂した。淳一の腕の中で、一美が起きあがり、右手を振った。電光がほとばしり、小さな雷鳴と共に稲妻が歪んだ空間を撃つ。紫のスパークが弾けて、歪んだ空間は消滅した。一美に振り向くマーの顔は、驚愕と怒りで醜く歪んでいる。

「おまえまで、あたしを、騙したの!」

 一美は、荒い息を吐きながら、蒼白な顔に凄絶な微笑を湛える。

「たいしたもんや、津村…いや、沙世子!使い魔の鴉や犬たち、おまけにうちまで、囮にしよって…」

一美の微笑が消え、鬼神の相貌になる。

「沙世子、マーの首を斬り落とすんや、マーをやっつけるには、それしかないねん!」

 

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 左手に握った髪の毛のロープを、ひと巻き、ふた巻きとたぐり寄せながら、沙世子はじりじりとマーに迫っていく。もがくマーの頬に、涙が光る。

「来ないで!いやああああ!」

マーは身悶えして哀願している。歯を食いしばって沙世子は前進する。黒いロープはぶすぶすと煙を上げ、もの凄い悪臭を漂わせながら、暴れるマーを辛うじて押さえ込んでいた。

 だが、沙世子がマーにあと一メートルまで接近したとき、ロープの端をくわえていた老犬が力尽きた。自らの毛皮を燃やす炎を鼻から吸い込んだロンは、激しく咳き込んでロープを放し、生きながら燃えていく苦痛にのたうち回り、痙攣する。

 力のバランスが一気に崩れ、マーと沙世子はほとんど折り重なるように転倒した。締め付けがゆるみ、マーは泣き顔を歓喜に燃え上がらせて立ち上がろうとする。しかし沙世子は無様に転がりながらも、執念で隕鉄の魔剣を、マーの右足の甲に突き立てた。悲鳴を上げながら、マーは沙世子の顔面を左足で蹴り上げる。沙世子の鼻から血が噴くが、マーも再び倒れる。這いずりながら沙世子はマーにのしかかる。魔剣を振り上げた沙世子の手首を、マーが両手で掴む。沙世子は両手で柄を握り、全体重を剣に掛ける。

 ぶるぶる震えながら、剣の切っ先がマーののどめがけて下がっていく。血走った瞳のマーが吠えた。

「いやだああ!!」

マーの掌が高熱を放った。沙世子がのけぞって苦痛の叫びをあげる。マーが起きあがり、沙世子が横倒しになる。沙世子めがけて火球を放とうと身構えたマーに、一美の掌から雷撃が飛んだ。マーの額に紫電が炸裂する。大の地になって吹っ飛んだマーに、髪を乱し、鼻血で顔を汚した沙世子が躍りかかる。

 マーの背後に回り込んで、上体を抱え上げ、逆手に持った魔剣で、のどを横一文字に掻き斬る体勢に入る。その刃をマーは左の素手で掴んだ。白熱する掌と魔剣の刃が拮抗する。しかし、緑の血が掌から溢れ、マーは絶望の声を上げた。

「あああ、お願い、許して、もう、死にたくない」

沙世子は目を閉じ、ただ、右手に力を込め続ける。その時、

「やめてくれ!!まぁを、殺さないで!」

少年の絶叫に、沙世子の目が大きく見開かれる。制止しようとする淳一に抱きすくめられながら、唐沢由起夫が、必死にマーと沙世子に駆け寄ろうとしていた。

 

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 一美が焦燥に狂わんばかりに叫ぶ。

「沙世子、怯んだらあかん!」

だが、沙世子の闘争心と復讐の猛気が、由起夫の姿を見た瞬間に揺らいだことは、礼子にすらわかった。マーがその隙を見逃すはずがない。

 マーの頭が毒蛇の頭部のように動き、緑の血に濡れた口が、沙世子の右手首に食らいついた。悲鳴と共に、魔剣が地面に落ちる。マーの頭突きが沙世子の顎を突き上げ、よろめいて尻餅をつく沙世子から、マーが自由を取り戻した。そして、地面の魔剣を拾い上げ、振り向きざま、沙世子を突く。身体をねじって避けようとした沙世子の肩口を剣先が裂く。転がって逃れる沙世子に、マーは右足を引きずりながら魔剣を振り下ろす。

 土埃にまみれて地面を逃げまどった沙世子が、背中を何かにぶつけた、上体を起こし、顔をしかめてぶつかった物体を見る。崩れ掛けた友情の石碑。その沙世子を見下ろし、マーは追いつめた獲物をいたぶる猫のように笑った。

「もう逃げるとこないよ」

一美が罵声と共に紫電を放つが、マーの血塗れの左手が挙がり、稲妻を苦もなく受け止める。閃光の中を、二つの影がマーめがけて突っ込んだ。無我夢中で走る礼子を淳一が追っている。マーの頭上に火球が生じ、礼子めがけて飛ぶ。淳一が礼子に飛びつき、押し倒す。その頭上を火球が通過する。

「ゆっくり、血を吸いたかったのに、残念だな」

無造作に言い放つと同時に、マーの持った魔剣は石碑に背中を預けて座る沙世子の左胸に突き出された。

 弾丸のように突っ込んできた少年の身体が、剣と沙世子の間に挟まった。隕鉄の魔剣は、由起夫の胸に深々と埋まっていた。

 誰も、言葉を発することが出来ない。沈黙の中で、マーが、震える声でつぶやく。

「なんで…ユキが…」

炎に照らし出される由起夫の顔に、苦痛の色はない。どこまでも悲しげに、マーを見つめている。細い声で彼は、ゆっくりと語りかけた。

「まぁ、ごめんな、いつも、いつだって、おれ、まぁが、何を望んでるか、ちっとも、わからないで、肝心の時に、なんにも、できなくて…ごめんな」

「なにを…何を言ってんの…」

惑乱した声でマーが叫んだとき、魔剣が抜け、由起夫の胸から鮮血がマーの顔に降りかかる。由起夫は、マーと沙世子の間に、うつぶせに倒れた。

「まぁ…元のまぁになって、ずっと、一緒に…」

声が途切れると同時に、由起夫の身体が動かなくなった。

 最初に我に返ったのは一美だ。歯を食いしばって立ち上がり、マーに雷撃を放つ。受け止めようとかざしたマーの右手から魔剣が吹っ飛ぶ。沙世子がマーに体当たりした。一美が、数メートルずつのテレポーテーションを繰り返してマーに迫る。一美も沙世子も、怒りに我を忘れている。

 マーは、沙世子に飛ばされて茫然と地面に尻餅をつきながら、動かない由起夫を見つめている。不意にそのからだの横に、真紅の人影が出現した。タイトなスカートのスーツをまとった、若い女。結い上げた黒髪に、ルージュを塗った唇が妖艶に笑い、慇懃な言葉を紡ぐ。

「王妃よ、お迎えに参りました。さあ、王の元へ」

一美が、愕然として叫ぶ。

「魔多羅衆のワクラ!」

 

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 マーが不思議そうに、傍らに立つ若い女=ワクラの顔を見て呟く。

「マタラシュウ?ずっと、あたしの心に話しかけていたのは、あなた?」

「それは、一族の長、アオイです。一族揃って、王妃を待ちこがれています。行きましょう」

ワクラは腕を少女の細い腰に回し、眼光を強める。歯噛みした一美が、全力を振り絞って念動力をぶつけた。ワクラが目を吊り上げて一美を見る。礼子の眼には、一美の身体から緑色の光が発射され、それをワクラの身体からにじみ出る赤い光が跳ね返しているように見えた。

 その光の渦の中、ワクラとマーの姿が、揺らめき始めた。一美が血を吐くような声で叫ぶ。

「淳一!追って!うちにはもう、テレポートする力、ない…」

その言葉が終わらないうちに、ワクラとマーはかき消えた。淳一が目を閉じて全身を緊張させ、次の瞬間その姿も消える。目標を失った一美の緑のオーラが、唸りを生じて直進し、遥か彼方の建物を一瞬照らした。

 がくり、と膝を突いた一美は、嵐のように呼吸している。上半身の作業着はほとんどボロ切れとなってぶら下がり、黒いタンクトップを付けた身体が剥き出しになっている。そのやけどだらけの右腕があがり、倒れている人影を指さす。

「…蔵人…早く、彼を、病院に連れていって…」

暗がりの中から、頭を剃り上げた中年の男が現れ、動かない由起夫の傍らに膝を突く。掌を由起夫の背中に当て、目を細める。男と少年の姿もまた、唐突に消えた。それを見届けた一美は、どっと横倒しになる。駆け寄る礼子に、一美の細い声が届いた。

「礼子…携帯で、救急車呼んでくれへん?」

礼子は頷いて、校舎の横に置き忘れてきたバッグに駆け戻っていく。

 砂の上に落ちた魔剣を、傷だらけの少女の手が拾い上げる。強く柄を握りしめ、思いきり振り上げ、地面に突き立てる。美しかった髪もみるかげもなく汚れ、焦げた沙世子は、声もなく肩を震わせ、何度も何度も地面を魔剣で刺す。

「逃がして、しもたな…」

荒い息の中から漏れる、一美の低い呟きに、沙世子は顔を上げ、充血した瞳を向ける。仰向けに横たわり、天を見上げて、一美はひとりごとのように続ける。

「悔しいな…ここまで、ボロボロになって、やったのにな…」

沙世子は立ち上がり、一美の横にふらふらと歩み寄る。何かを言いたそうに唇を震わせるが、言葉が出ない。

「沙世子も、こうやって寝よ…うちらどうせ二人とも入院や…あ、星が見えるで」

反射的に空を仰いだ沙世子は、そのまま、崩れるように一美と並んで仰向けに横たわる。一美の右手と、沙世子の左手がどちらからともなく近寄って行き、おずおずと、やがてしっかりと握りしめ合う。

「…流れ星が、ようけ…流れるな」

「…うん」

初めて沙世子が、一美の言葉に頷き、一美の手を強く握る。

「悔しいな」「うん」

「痛いな」「うん」

遠くから、サイレンの音が聞こえ、やがて凄まじい数と音響になっていく。

 

       99

 赤石えりかは、一人で夜明けの海を見つめている。海と言っても波の向こうには遠く対岸の灯が見える。湾を隔てた彼岸は東京だ。汚れた空気を巨大なドームのようにして被りながら、無数の人間の営みを飲み込む街…その排出する汚物で窒息しそうになりつつも、大いなる水は生命の源である豊饒さを失ってはいない。

 えりかは一心に祈る。自分を救い、この土地に連れてきてくれた唐沢、その息子の由紀夫が、瀕死の重症を負い、手術を受けた。命の灯は、消えようとしている。えりかが病院にいて出来る事はなにもなかった。抜け出し、歩いて数分の海岸に来て数時間。山に生まれ育った「白い魔女」は、慈愛深く、そして冷厳な「自然」に祈る事しかすべを知らない。

 不意にえりかは目を見張った。闇の中で黒い海が、白く泡立ったように見えた。そのミルクのような白い波から、光が発せられ、空を駆け、えりかの頭上を越えた。予感に駆られてえりかは立ち上がり、病院に向かって走り始めた。

 

 礼子は、見舞いの花束を手に、四人部屋の病室をノックする。

「ええよ。どうぞお入り」

関西弁の、陽気な声が応えた。部屋に入ると、声の主、ウルフカットを茶色に染めた二〇代の女性が、ベッドに起きあがったまま、にこやかにえりかに頷く。左足を骨折しているらしく石膏ギブスで分厚く固め、吊り上げている。その横のベッドで、一美はやはり同じように起きあがり、背中にクッションを当ててもたれかかっていた。

「あ、もう起きあがれるようになったんだね」

「何とかね。この千鶴さんが、頑張れ頑張れってうるさくてしゃーないもん。起きんとたまらへん」

一美は、苦笑している。千鶴と呼ばれた関西弁の女性は、茶髪を振りながら口を尖らせる。

「うちに感謝しいや。ぐだーとねとったら、筋肉がどんどんへたってくんやで。ま、久しぶりに関西弁で喋れる相手見つけたし、うちもうるさかったんは確かやな」

賑やかに笑う千鶴に、礼子も笑顔を返しつつ、一美の向かい側のベッドの沙世子に目を向ける。

 火傷に加えて切り傷も負った沙世子は、さすがにまだ起きあがれない。それでも、礼子に視線を返し、頷いている。思ったよりもその顔には血の気が戻っていたので礼子は安堵の息をつき、沙世子の枕元の花瓶に、ペチュニアを活ける。

「由起夫君の容態は?」

沙世子が訊ねるのに、礼子は明るく応えた。

「大丈夫だよ。もうまったく心配ないって。明日くらいから食事もとれるらしいよ」

「ほんま?!…っつつつ!」

身を乗り出した一美が、包帯でぐるぐる巻きにした腕に視線を落として顔をしかめる。

「火傷はなかなか治りづらいからなあ。けどあんたら姉妹、運がよかったんやで。そんだけあちこち火にあぶられても、べっぴんさんの顔には、ほとんど傷ないやん」

千鶴が羨ましそうに、一美と沙世子を見比べる。

(姉妹?)

怪訝に思い、礼子は一美に顔を向ける。悪戯っぽい目で礼子にウインクした一美が千鶴に問う。

「うちら苗字も違うし、沙世子は標準語やのに、なんで姉妹やてわかったの?千鶴さん」

千鶴は自信たっぷりである。

「これでも、人生経験積んでるし、人を見る目はわりとあんねん。一目で分かったで。一美ちゃんと沙世ちゃん、顔立ちが似てるだけやない、なんつうか、魂に共通するもんが滲んでんや」

 

        100

 一美が微笑する。沙世子は枕の上で、どこかくすぐったいような表情だ。けれど否定もせず、千鶴の誤解をそのままにしている。

(あんなに、反発し合っていたのに…)

礼子は一美と沙世子の変わり方を嬉しく思う反面、二人に嫉妬を覚えているのを自覚する。

「あ、午後のワイドショー、終わってまうやん」

千鶴が枕の横からレンタルテレビのリモコンを取り上げて押す。サイドテーブルに置かれたテレビのブラウン管に、マイクを手にして歌う少女の顔がアップで映った。

 幼い顔立ちとアンバランスな、深い情念を見事に表現した歌い方だった。宇多田ヒカルのナンバーを歌っているのだが、声の質は全く違い、クリアなハイトーン。なのに、凄艶というべき迫力があるのだ。

「凄いねえこの子。まだ十二歳やて。天才っておるんやねえ」

千鶴が感心して画面に見入る。礼子は、一美が身を乗り出し、食い入るように歌う少女を見ていることに気付いた。

「ナナセ…」

一美のうめくような声に、千鶴は明るく相槌を打つ。

「そうそう、一美ちゃんも知ってたんか?このナナセって子、一週間前に初めてライブハウスに出演したんが、あの絵亜迅に認められて、電撃デビューするんやて」

「エアジン?」

けげんそうな一美の顔に、千鶴は口を尖らす。

「なんや知らへんの?前は自分で歌ってヒットを飛ばしとったけど、今はチー娘をプロデュースしたんで有名やんか。その絵亜迅がついてるんやから、この子、きっと…」

 

 一美と沙世子の見舞いを終えて、礼子が自宅に戻ったのは夕方の六時半。そろそろ梅雨も明ける気配を見せて、空はまだ明るい。礼子の家はありふれた建て売りの一戸建てだが、隣接してプレハブの空手道場がある。父はアメリカや東京の道場に出張していることがほとんどで、弟子の何人かがここで近隣の子供たちや大人相手に教えている。しかし、礼子は珍しく、父の気合いが聞こえることに気付いた。

「父さん、帰ってるんだ」

礼子は頬がゆるみ、同時に父に甘えたい気持ちが猛然と起こるのを感じた。異常事態の中、ずっと緊張し続けだったせいだろう。玄関に通学鞄を放り、道場に足を向ける。

 道着を身に付け、一生懸命突きや蹴りを練習する幼い子供たちを観るのが、礼子は大好きだ。その中に混じって、父の大きな背中を見つけた礼子は、張りつめていた気持ちが溶け、涙ぐみそうになっている。

 だが、礼子の身体が、急にこわばる。父親の向こうに、道着を着た長身の白人がいた。

(アーサー!)

 

       101

 小中学生組のあと、高校社会人組の稽古も済み、道場生たちがすべて帰ったのは午後十時頃だった。いつもは教授役の高弟たちも同時に帰宅してしまう。だが、今日は別だ。道場主の礼子の父がいるときは、沢渡宅で飲み会が始まる。襖を取り払って部屋をつなげた一階に、幾つもホットプレートを置いて、焼き肉や焼きそばを食べながら、弟子たちと礼子の父は時に夜明けまで語らい続ける。十二時までは礼子もそれに混じっていることを許されていた。

 礼子の父はアルコールを飲まないが、弟子に禁じてはいない。それでも、ビールやチューハイを飲むのは弟子たちのうち三割くらいだ。あとは礼子も含め、麦茶やウーロン茶、トマトジュースなどを口にしながら、会話に興じる。ニューヨーク時代もそうだった。幼い礼子は、父の膝の上でジュースを飲みながら、目を輝かせて父と弟子たちの「ローキックの実戦での使い方」とか「他流試合の心得」とかを聴いていたのだった。

 けれど今夜、礼子は楽しめない。努めて食材や食器の用意や片づけに立ち、席に座らないようにしている。父の隣にいるアーサー・マケインと、顔を会わせるのが怖かった。

「礼ちゃん、どうしたの今夜は、なんか女の子みたいに甲斐甲斐しいじゃん」

弟子の一人が、ビールで顔を赤くしてからかう。汚れた皿を積み上げて台所に運びながら、礼子はアカンベをした。

 皿を流しに放り込み、食卓の椅子に座って、礼子は溜息をつく。父と二人で話すことは出来そうもない。時計は十一時十五分を示している。もう寝てしまおうか、と思った。

 微かな音を立てて台所の戸が開き、逞しい男が入ってきた。手にした大振りのタンブラーには、真っ赤な液体が湛えられていた。礼子は腰を浮かし、顔をこわばらせる。

「やあ、依頼された仕事の報告を、やっと出来るね、礼子」

アーサーは明るく言い、礼子の向かい側の椅子に座る。タンブラーの中のトマトジュースが鮮血のように礼子には見える。

「麻田かれんも鳴滝一美も、無事に戻っているのは、君も知っているとおりさ。だがね、二人とも以前の彼女たちではない」

アーサーの青い瞳が、礼子を射る。

「ヴァンパイアに咬まれた犠牲者がどうなるか、知っているね?同類になるんだよ。おぞましい怪物の」

言葉を止め、アーサーはトマトジュースを、ゆっくりとテーブルの上にこぼす。真紅の血だまりのように広がっていく。

「その一美と、君はずっと一緒に行動している。よくないことだ。すぐにやめたまえ。彼女や鳴神一族とは、縁を切らなければならない」

礼子は乾いた唇を嘗め、ひりつくのどから無理に声を絞り出す。

「あたしのことも、探偵してるわけ?キメラグループのエージェントさん」

アーサーは微笑する。

「礼子、君は大事なお師匠の令嬢だよ。私は君を守りたいだけだ…」

アーサーの声を遮って、礼子は立ち上がる。

「あなたに訊ねたいことがあるの。あたしのクラスメイトだった、まぁを車ではねたのはあなた?正直に答えて!」

 

     102

 礼子はまだ心の隅で、アーサーが否定することを期待していた。彼は礼子にとって、空手の兄弟子であり、時に兄そのもののような存在だった。

 アーサーは、テーブルの上にこぼしたトマトジュースを見つめながら、青い瞳を細める。

「あれも、君を守るための手段の一つだったんだ。花宮雅子は。あまりに危険でコントロールできない超能力者だった。回りにいる者を堕落させ、ついには滅ぼしてしまう、悪魔に他ならない。だから、抹殺した。私は後悔などしていないよ」

アーサーは目を上げ、まっすぐ礼子を見つめる。鋭い視線だが礼子はたじろがずに見返した。

「だが、悪魔は復活した。鳴滝一美という、悪魔の同類が手を貸したのだ。彼女らはもう、魔女だ。緑色の血を持った魔王の愛人どもだ。生存を許しておいてはいけないのだ」

「やめて!…あなたが、あなたたちが、まぁをあんな風にしたんだよ。あなたが、まぁを殺さなければ、まぁはカーリー・マーになんかなるはずがなかったんだ」

礼子はいきり立ち、椅子を倒してアーサーに詰め寄る。アーサーは憐れむ瞳を礼子に向ける。

「君は、そんなにも悪魔に感化されていたのか…では、確かめなければならないな。君が悪魔と契約を結んでいないかどうか」

アーサーは、間近に立つ礼子の全身を嘗めるように視線を動かす。礼子は驚きに痺れたようになった。家族に近い感情を覚えていた彼が、今、礼子を「異端審問官」の目で観ている!

 アーサーから離れなければと思った瞬間、礼子は先手を取られた。素早く伸びたアーサーの節くれ立った左手が、少女の顔面を掴む。掌で口を覆われ、顎関節を指で強く握られて、礼子は声が出せない。アーサーの右手は礼子ののどから首筋をまさぐった。

「ふむ、首から血を吸われた様子はないな。だが、身体の隅々まで、詳しく観ないと」

冷静沈着な声でアーサーは呟くと、右手を手刀にして、鋭く礼子の左耳の下を撃つ。頸動脈を圧迫され、礼子は視界が暗くなった。意識を失う寸前、彼女は激しく心の中で叫んだ。

(助けて、一美!沙世子!)

 

 床に崩れ落ちようとする少女の身体を、アーサーは軽々と左手で抱き留め、肩に抱え上げる。家の構造を熟知した足取りで、そのまま勝手口へ向かう。既に彼の靴はそこに用意してあった。内側から掛かっているロックを外し、ゆっくりと外の闇へ歩み出る。礼子を荷物のように肩に載せ、停めてあるデミオに向かう。

 右手でポケットからキーを取りだし、車のドアに差し込もうとした、その瞬間に、アーサーの背中に、のんびりした男の声が投げつけられた。

「ねえ、そりゃちょっとまずいんじゃないっすか。女の子を担いで無理矢理ドライブに連れ出そうなんて」

 

     103

 アーサーは鍵をドアに差し込み、ロックを解いてから、振り返る。肩に担った礼子の体重を微塵も苦にしていない、軽々とした動作だ。

 沢渡家から漏れる灯りに照らされ、ひょろりと背の高い男が立っている。すり切れたジーンズとポロシャツに、色あせた日除け帽。ハイカーかホームレスか、見分けにくい風体だ。

「さあ、その子は、家の中へ返してあげましょうよ。ねえ、そうすれば見なかったことにしてあげるから…」

「う…」

その時、礼子がうめき声を上げて、もがいた。目を開き、背の高い男を見る。

「唐沢、探偵?」

無造作にアーサーが、礼子の首筋に再び手刀を撃ち込み、少女の頭はがっくりと垂れる。アーサーは唐沢多佳雄を無視して、デミオのドアを開け、礼子を車内に投げ込む。しかしその間に多佳雄は一気に間合いを縮めていた。

「なんで、そんなことをするのかな!」

アーサーの背後に迫りながら、困惑の声を発した多佳雄に、アーサーはなんの前触れも示さずに後ろ蹴りを放った。みぞおちのあたりに命中し、長身をくの字に折って多佳雄はふっとぶ。しかし、顔をしかめながら起きあがった多佳雄は、平然とした表情だ。

「さすが本場の探偵さんはあらっぽいなあ…」

アーサーの目に、警戒の色が滲む。蹴られながらも急所を僅かに外した敵の身のこなしに底知れぬものを感じたのだ。

 猛然とアーサーは攻撃を掛けた。左拳でジャブを放ち、下段前蹴り、右拳で顔面とみぞおちに連続して突きを入れ、間髪を入れずに左から上段回し蹴り…

 嵐のように浴びせられる突きと蹴りは、ことごとく多佳雄に命中した。だが、ふわりふわりと上体を揺らす多佳雄の動きは、打撃力を逸らして、決定的なダメージを避けていた。そして、アーサーが息を継ぐその瞬間を捉え、電光の速さで右拳を鉄槌のように振る。

 アーサーはこめかみを打たれて、ぐらりと体勢を崩すが、辛うじて跳び下がり、間合いを取った。

「さあ、返して下さいよ、その子を…」

多佳雄はふわふわした身ごなしで、距離を詰めていく。

 

     104

 屋上から見上げる夜空は、所々雲に覆われているが、星々の光の強さは梅雨明けの間近いことを知らせている。

 一美は金網に背中をもたせかけ、北斗七星を眺めていた。パジャマにカーディガンを羽織り、スリッパを履いて病室を抜け出してきた。傷と体力の回復は、驚異的だった。

(まだ、うちの身体、あいつに咬まれた影響が残ってるんや)

唇を噛んで、一美は宙に、碧血の魔王の面影を描く。複雑な感情が渦巻いた。

 その時、屋上の出入り口のドアがきしんで、やはりパジャマ姿の少女が、ゆっくりと一美に向かって歩みだした。目を見開いて一美は迎える。

「沙世子…歩けるんか!?」

青白い顔に、僅かに微笑を湛えた沙世子は、慎重に一歩一歩足を運び、一美の横に並んで星空を見上げる。

「私ね、いつも夜の方が体調がいいのよ。まだ昼間は起きれないと思うけど…」

そこで言葉を切り、沙世子は哀しげに唇を歪めた。

「私が魔女、だからかなあ…」

一美は、溜息をついて、苦笑混じりに呟く。

「魔女、かあ。うちも、やたら本で調べたよ。うちみたいな力を持った女が、どんな運命を辿ってきたかって。気が滅入る事ばっかやった」

沙世子は、目を閉じ、うめくように朗唱する。

「…汝は魔女を生かしてはいけない。聖書、出エジプト記第22章第18節…」

一美もまた、歯を食いしばるようにして、記憶の中の文章を呟く。

「…善をなすかに見える白い魔女も、その力は悪魔に由来している。民衆の信頼を得ているという点で黒い魔女よりも遥かに危険であり、両者とも絶滅させる必要がある…」

二人は沈黙した。北斗七星を横切って星が流れた。ぽつり、と一美が言った。

「でも、まぁは、うちを友達だって言ってくれたよ」

沙世子は、一美の顔をはっとして見つめる。一美は空を向いたまま、ぼそぼそと続ける。

「なあ、沙世子。カーリー・マーをしとめきれずに逃がしてしもうた時…ほっとせえへんかったか?」

沈黙が沙世子の肯定を現していた。

「どうすればええんやろ、これから…まぁを探して…そんで」

「殺せないわね。ユキをあんな顔で見ていたまぁ…そう、あれは、カーリー・マーじゃなくて、まぁだったね」

そう、言葉を発した沙世子の唇が凍る。同時に一美も身体をこわばらせている。二人の脳裏に、空間を越えて届いた礼子の叫びがこだましていた。

(助けて!)

 

      105

 無造作に間合いを詰めてくる多佳雄めがけて、アーサーは顔を歪めて猛然と左右の拳を振るう。しかしこめかみへの打撃が平衡感覚を狂わせていたのか、ことごとく空を切った。そして、僅かにふらつくアーサーの左膝めがけて、多佳雄の冗談のように軽い蹴りが入った。

「うぐ!」

関節が軋み、アーサーの体勢が大きく崩れる。多佳雄の目が、別人のように猛獣の輝きを発し、渾身の力で右拳がアーサーの顎をめがけて突き出される。

 ぴしっ!

アーサーの顎先で、多佳雄の拳はぴたりと静止した。多佳雄の握りこぶしを、一回り大きな白い手が握っている。アーサーが受け止めたのである。そのままアーサーは多佳雄を引きずり寄せ、手首をねじった。関節の脱臼する異音が鈍く響く。激痛に歯を食いしばる多佳雄の顔面に、アーサーの左の裏拳が激突する。のけぞる多佳雄の顎に、上段突き。さらにみぞおちに左抜手。

 長身を二つに折って転がった多佳雄の口から、血の泡が噴き出した。身体を痙攣させてのたうつ多佳雄に、アーサーは冷酷な視線を浴びせ、用心深くにじり寄ると、足を上げて踵で多佳雄の胸部を踏みつけようとする。肋骨を折ってとどめを差すつもりだ。

 苦悶しながら、多佳雄が長い足でアーサーの軸足を薙ぎ払った。しかしアーサーは垂直にジャンプして避け、無防備になった多佳雄の背中に改めてつま先を蹴込む。活殺の急所に一撃が決まり、多佳雄は気絶した。

 アーサーはデミオに戻り、失神している礼子を助手席に座らせると、ポケットから小さなプラスチックの紐のようなものを取り出す。礼子の両手を後ろに回し、二つの親指を並べて、プラスチックの輪を被せ、末端を引っ張ると、親指同士が固く締め上げられて、解くのは不可能になった。その上でシートベルトを掛けて礼子の身体を固定し、アーサーは運転席の側に回る。

 ドアを開けたアーサーの顔が不意に緊張し、運転席の下に右手を突っ込むと、ガムテープで貼りつけてあった拳銃を引き剥がし、膝立ちになって振り向く。銃口を向けた三メートル先に、パジャマを着た一美が、青白い顔に怒りを燃やして立っていた。

「…魔女め!」

短い罵声を浴びせると同時に、アーサーはためらいもなく発砲した。2連射の鋭い銃声が住宅街にこだまする。発射炎のフラッシュが、一美の姿を照らしだす。しかし少女のからだは揺らぎもしない。二つの9ミリ弾は一美の胸の数センチ手前で緑の光に包まれ、宙に停止している。アーサーが驚愕に目を見開きながら、続けて引き金を引き絞ろうとした時、一美の手から電撃が飛んだ。ベレッタ・ブリガーディアが紫の稲妻に包まれ、右腕から黒煙が噴き、アーサーは苦痛の叫びを挙げて倒れ伏した。

 

     106

 一美は荒い息をつきながら、デミオに駆け寄る。ドアを開け、車内灯を付けて、礼子を観る。失神しているだけで傷はない。沢渡家の中から慌ただしい気配が漏れてきた。銃声を聴いて、複数の人間が出てくるようだ。一美は素早く、暗がりの中へ身を隠した。

 

 礼子は目を開いた。見慣れた自分の部屋の天井が目に映る。視界の隅に、父親の顔がある。慌てて起きあがり、質問する。

「アーサーは?」

父・沢渡拓也は、窓を指さした。赤色回転灯の光がカーテンの向こうに見える。

「あいつは、入院のあと、こってり警察に絞られるだろう。いったいなぜ拳銃なんかぶっ放したんだ」

「唐沢探偵、撃たれたの?」

緊張する礼子の肩を叩き、拓也はゆっくり首を横に振る。

「いや、大丈夫だよ。弾は誰にも当たっていないようだ。その唐沢さんなら、自分で抜けた手首を元に戻して、警察に事情を説明してくれている。見かけはひょろひょろしてるが、なかなかの人物だな」

そういうと、拓也は礼子の頭をなでる。

「礼子、すまなかったな。ずっと話もしてなくて…何があった?」

分厚い父の掌の暖かさを感じ、礼子の眼に、じわっと涙が滲んだ。

 

 空間転移して、病院の屋上に戻ってきた一美を、沙世子が迎えた。

「礼子は、無事だったのね」

「うん。なんとか。うちのほうがちょっとやばい…」

よろめく一美を、沙世子が支える。薔薇の香りを嗅いで、沙世子は一美を案じる。

 とっくに消灯時間になっていて病室は暗い。ベッドに一美を横にして、沙世子は深く息をつく。

「もう…戦わなきゃならないのね」

「そうや…しんどいけどな。礼子をさらおうとした奴は…うちを魔女って呼んだで。そんで礼子も魔女かと疑ごうて…」

「…裸にして、魔女の印を探そうと、したのね!」

小さな灯りに照らされる沙世子の横顔は、やり場のない怒りにひきつっている。

 

      107

…イスラム原理主義者の破壊的狂信がわれわれにもたらすのと同じ恐怖感を、同じ信者ではあっても、正気や寛容の精神を失っていない多くのイスラム教徒も共有している。それと同様に、「魔女への槌」が書かれた当時、ドイツや他のヨーロッパ諸国の何百万というカトリック教徒は、異端審問の法廷を恥じ、嫌悪していた。だが…(F・ヒメネス・デル・オソ著「図説 世界魔女百科」原書房刊 より)

 

…魔女の印 魔女の伝承にある、魔女の身体にある余分な突起物や乳首のことで、そこから使い魔や小悪魔に乳を飲ませる。(中略)イボ、ほくろ、できもの、皮膚の突起ないし変色は、魔女の印と考えられた_とりわけ、もしそこから何らかの液や血が分泌されると。魔女だとして告発された者が逮捕されたとき、彼らの身体と腔が、何かでこぼこがないかと調べられた。(中略)魔女裁判では「刺し役」が被告発者の皮膚を刺し、無感覚場を確定した。この場所は、魔女の印ともまた呼ばれていた。(中略)「魔女の印」という用語は、しばしば魔王の印と同じように用いられる。…

…魔王の印 中世の魔女狩り人によると、魔王はつねにその入会者の身体に、永遠に消えない印をつけた。自分に対する服従と奉仕の誓いを確たるものにするためである。魔王は爪を立ててその入会者の肌をひっかくか、熱した鉄を当てて印をつけたが、その印は普通、青か赤となり傷にはならない。(中略)印のつけられる場所はつねに「秘所」であった。例えば、まぶたの裏とか、腋の下、身体の各部の腔などである。(中略)妖術を用いたかどで裁判に引きずり出されたものはすべて、このような印があるかどうか徹底的に調べられた。傷跡、生まれつきの痣や傷、無感覚で血のでない皮膚の部分などは、魔王の印としての資格を備えていた。専門家は、魔王の印は普通の傷とははっきり区別できると固く信じていたが、実際にはそんなことはほとんどなかった。自分の傷は生まれつきのものだ、と犠牲者がどんなに抗議しようと無視された。…(ローズマリ・エレン・グィリー著 「魔女と魔術の事典」原書房刊 より)

 

         108

 翌朝、一美を起こしたのは、隣のベッドの千鶴が点けたレンタルテレビだ。お喋りをしている時以外、千鶴は朝から消灯時間までテレビを見ている。ワイドショーかニュース、バラエティしかチャンネルを合わせない。

 おかげで、一美は入院してから、自分たちが関わってきた事件が、世間にどんな風に知られているか、掴むことが出来た。

 カーリー・マーが渋谷や原宿で若者達を吸血し、ゾンビを作り出した件は、突如狂暴化した若者の群れが出現して、三十九人の犠牲者を出した事件と捉えられている。百人以上が逮捕され、全員が入院措置となって、一応騒動は収まっているとテレビは告げていた。他のニュースを圧倒する驚愕の重大事件であり、狂暴化の原因を巡って、連日憶測と論議が続いている。

 西浜中学校庭での死闘は、その狂暴化した若者達の内ゲバで、爆発物が使用されたという事になっている。八人の死者と十三人の重軽傷者が出ていた。死者の中に、塔子先輩の名前を聞いて、沙世子は唇を噛んで瞑目した。

 それ以前の、信州伊那谷の出来事や、花宮家炎上は、全くテレビには出てこない。もちろん、花宮雅子の名前、魔多羅衆、鳴神一族、キメラ・グループ、どれも隠蔽されている。

 その代わりに、一美にとって気になる現象が二つ起きていた。一つはもちろん、魔多羅衆の一人、ナナセが歌手としてデビューし、いきなりメジャー扱いされていること。有名プロダクションと敏腕プロデューサー、全国ネットのテレビ局など、強力なサポートを受けて、瞬く間にカリスマ的スターになりつつあった。

 もう一つは…

「あーあ、ええ加減退屈したわあ。はよ退院して、ここ、行ってみたいわ」

千鶴が指さす画面には、夢の島、新木場駅周辺の異様な雑踏が映っている。数週間前から、何のイベントがあるわけでもないのに、屋台や移動販売の車両が集まり始め、路上をテントや段ボールハウスが占拠し、異常な人口集中が起こり始めているという。道路や広場、公園、空き木場などの空間はさながら常設フリーマーケットといった雰囲気で、路上パフォーマーたちの舞台、コンサート会場と化した場所も出来ていた。

 そして、今日、気になる二つの現象が、結びついた。

「ナナセが、ここでゲリラコンサートやるんやて…って、予告してゲリラコンサートになるんやろか?でも、行きたいわあ!」

一美は食い入るようにテレビに映る群衆を見つめる。魔多羅衆と魔王は、きっとここに関わっていると確信しつつ。

 

 

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