その8

 

 

 

 

 

 その8・夢の島の歌姫

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 元々は喫茶店だったらしい造りの「唐沢探偵事務所」で、赤石えりかはカウンターに立ち、コーヒーを煎れている。ひょろ長い手足を投げ出して、スプリングのへたったソファにだらしなく寄りかかっているのは多佳雄だ。迷い犬猫の写真の載ったチラシが乱雑に積まれているテーブルに、えりかはコーヒーを運ぶ。

「すまないね、えりかさん」

「もう刺激物摂っても、胃は大丈夫なんですか?」

心配そうにかがみ込むえりかの顔をまぶしそうに見上げ、多佳雄は曖昧に頷き、コーヒーをがぶりと口に流し込む。

「これでも、見かけよりは頑丈なのが取り柄なんだ。それよりあなたこそ、こんな汚いところでずっと寝泊まりさせちゃって申し訳ない…」

「あたしも、見かけより頑丈ですから」

色白の顔に、ふわり、と柔らかな微笑を浮かべたえりかだが、すぐに表情を引き締め、多佳雄の向かいの椅子に座る。

「それじゃ、今日は案内して貰えますか?早く、一美さんやかれんさんに会いたいんです」

「そうだったねえ。ユキのことですっかり遅くなってしまった。おまけにそのために沢渡礼子ちゃんに会いに行ったら、このざまだしなあ…よし、今日こそは」

多佳雄は携帯電話と手帳を取り出し、汚れた手帳のページをめくって、番号をプッシュする。

 

 新木場駅の雑踏は、一美や沙世子の想像を遥かに越えるものだった。様々な方言や外国語が入り乱れ、改札は列も組もうとしない人の群れが押し寄せて、混乱の極みである。

 しばらくは改札をくぐれないと腹をくくったふたりは、腕を組んで改札横の壁に背中を付ける。

(すごい熱気だね。息苦しい…)

(ああ…うちはあんまりテレパシーないんや。沙世子は、この仰山な人の頭んなか、読める?)

(少しはわかるかも…やってみようか…)

一美と思念の声で喋っていた沙世子は、目を閉じ、顔をうつむけて耳を澄ますような表情になる。

(…おまつり?お祝い?…ほとんどの人の脳に、そんな意識があるわ…もうすぐ、大きな、祝いの式典がある…そして…王国?王国がはじまる?)

「沙世子、そこまでや、やめ!」

一美が肉声で低く呟き、沙世子の肩を揺さぶる。驚いて目を開いた沙世子は、一美が無表情を装いながらひどく緊張していることを知った。

「敵がいるみたいや…うちのテレパシーは、敵意、だけはようわかる…沙世子のテレパシー、探知されたかもしれへん…歩こう」

一美は沙世子の背中を押し、改札の混雑へ踏み込む。

 

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 やっとのことで改札を抜けると、一美は大きく息をついた。沙世子も深呼吸をする。人々は足早に駅を出て行く。若い娘も、中年男も、一様に顔を輝かせ、背を伸ばして大きな歩幅である。

 そんな中、よろよろとさまようその小柄な姿は異様に目に付いた。古くさいキスリング型のリュックサックを背負い、杖を手にした老婦人である。白髪を後頭部で丸く束ね、スニーカーを履いている。靴もズボンもブラウスも、安物ではあるが新品だ。精一杯身ぎれいにして、遠方からやってきたのだろう。だがその皺ばんだ顔は不安と戸惑いに青ざめ、歪んでいる。

 思わず一美が、声を掛けようとしたとき、制服を着た駅員が老婦人に近寄り、かがみ込んで訊ねた。

「どうかなさいましたか?」

「あ?あんなあへえ、連れとはぐれてしもうたんどす…」

老婦人は、細い声を振るわせた。紛れもない京都弁を聞き、一美は反射的に、駅員と反対側から老婦人に語りかける。

「おばあちゃん、京都の人なん?うちもそうなんや。連れって、どんな人ら?」

老婦人は、駅員と一美を見比べながら、徐々に落ち着いた表情になる。

「ご親切に、おおきにありがとうさんどす…娘と、婿はんと、孫なんやけど…」

一美はモデルのように頭を高く上げ、目を細めて雑踏を見透かした。その肩に、沙世子がそっと手を載せる。振り向く一美に、沙世子の目が語る。思念の声が一美の脳に流れ込む。

(プラットホームの方で、このおばあさんと似た不安な「気」があるわ。きっと心配してるご家族よ)

一美は頷き、駅員に話しかける。

「あの、ホームで、誰かを捜している様子の家族連れがいたんですけど…」

駅員は、まだ二〇代に見える若い男だったが、暖かな目で頷いた。

「じゃあ、アナウンスしてみましょう。おばあちゃん、お名前は?」

老婦人の氏名を聞き出した駅員は、優しく告げる。

「そこのベンチに、座っていて下さい。今ご家族を呼んであげますから」

一美は自然に老婦人の手を引いて、改札からほど近い待合室のベンチに向かった。沙世子もついてくる。プラスチックのベンチに、疲れ切った様子で老婦人は腰を落とし、その横に二人の少女も並ぶ。

「おばあちゃん、おおきな、リュックやねえ」

「これがうちの、全財産ですもん。言うても着替えくらいやけど。もうここに来れば、なあんにもいらんのやから」

老婆は、ようやく笑顔を見せながら、そう呟く。沙世子が不審そうに眉をひそめる。

「おばあちゃん、ここに引っ越してきたの?」

「そんなもんですやろなあ…長い間、うちらが待って待って、待ちくたびれた、うちらの王様が、やっと現れはった。そんでもうすぐお后様と結婚しはる。そのとき、夢に見たうちらの国が、ここにできあがるんやねえ…」

アナウンスが老婦人の声をとぎらせた。老婦人の名前を告げ、待合室で待っている事を家族に知らせている。聞き入る老婦人の横で、一美と沙世子は素早く念話を交わす。

(このおばあちゃんは…)(そうや、魔多羅衆やわ)(じゃあ、家族も)(うん、やってくる前にここは離れよ)

 アナウンスが二度繰り返され、それが終わると同時に、二人の少女は立ち上がった。

「おばあちゃん、じゃあ、うちらは」

「おおきに。京都の言葉聞いて、心の底から安心しましたえ。また、どっかでお会いしまひょ」

老婦人の掌は、荒れていたが温かく、一美はしばらく離せなかった。

 

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 駅を出ると、曇ってはいたが、日の光は薄い雲を貫いて地上を照らし、汗ばむ陽気である。薄青いワンピースに、斜めにバッグを掛けた沙世子が、白い腕をかざして、まぶしそうに陽光を遮る。そして独り言のように呟く。

「あのおばあちゃん…幸せそうだったね」

 沙世子の心に、祖母・ゆりえの面影がよぎっていることに気付いたが、一美は何も言わない。白いシャツを腕まくりし、七分丈の黒いスラックスを履いたしなやかな足を動かし、一美は先に立って歩み始めた。

 屋台通りとでも言うべき道が続いている。巨大な縁日のような雰囲気だ。並木のある歩道は、アクセサリー売りや古着、古本、食器などを並べたシートで埋められている。暑さに顔をしかめ、一美は屋台の一つに寄ってかき氷を二つ買った。差し出された発泡スチロールのカップを、沙世子はすぐには受け取らない。周りを見回し、あちこちに仮設トイレが設置されているのを確かめてから、かき氷を口にした。

「無法地帯になってると思ったから、ゴミやトイレの状況なんてどんなにひどいかと覚悟してたんだけど、意外ね」

沙世子の言葉に、一美は少し驚いた顔をする。

「あ…トイレを心配して、さっきから何も飲まへんかったんか。でも、ほんまやな。こんだけ仰山の人がいきなり集まって、ゴミとか、お風呂とか、どないしてんのやろ」

かき氷を匙で掬いながら、一美は見回す。露店の途切れた道には、カラオケセットで歌声を響かせる一団がいた。何をするでもなく輪になって地面に座り、談笑している老人達もいる。ダンスを延々と続けている若者の集団もあった。木陰に簡易式のベッドが並び、何人もが昼寝を貪っている。誰の顔も屈託がなく、満ち足りていた。

「こんな、のんびりした顔の人たち…街ではみたことがないわ」

「まったくや…あかん、こんなんでは、うちら、目立つな」

二人は、周囲の雰囲気から自分たちが異質であることを自覚せざるを得ない。不意に沙世子が一美に身を寄せ、手を握った。直接接触で、傍受できない念話を発する。

(私たち、駅から尾けられていたみたいだけど、今、囲まれ始めてるわ)

(覚悟の上や。こっちから探さなくても、きっと奴らの方から来る思てた)

一美は沙世子の手を引き、貯木場の水際へと移動する。わざと人気の少ない場所を目指す。雑踏に紛れていた尾行者達の姿は、否応なく露になってきた。服装にも年齢にも全く共通したところのない五・六人の男達…だが、その険悪な目つきは兄弟のように似通っている。

 潮の香りはあまり芳しいとは言えない。道の端は海に消えている。男達はもう身を隠すそぶりもなく、刃のような視線をまっすぐに向けて、距離を詰めてきた。追いつめられ、手を握って震えているかに見える二人の少女は、緊張しながらも落ち着いて念話を交わしている。

(こいつら…魔多羅衆やない。やくざやな)

(でも、きっとどこかで超能力者が指揮を執っているわね)

(そいつを何とか引っ張りださなあかん)

 男達の数は七人。足を止め、一美と沙世子の全身に、嘗めるような視線を走らせる。何人かが口笛を吹いた。横一列に並んだ中央に、ずば抜けて凶暴な雰囲気の男がいる。リーダー格らしい。病的に青い顔に、歪んだ笑いが広がる。

「きれーなねーちゃんたち、ちょっと事務所まで来て貰おうか。すぐそこだ」

「事務所?テントやの?それとも段ボールハウス?汚いとこやったら、いややで」

嘲弄する一美の言葉に、リーダー格の男の目が、剃刀のように細く光った。

 

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「ほう…びびってんのかと思いきや、根性のありそうなねーちゃんだな」

男達が威嚇の表情になり、二人の少女を取り囲む。たちまち一美は気弱な怯えた顔を見せた。

「行く!行くから、荒っぽいことはせんといて!」

沙世子も小さく悲鳴を上げて、一美にわざとしがみついた。男達の顔から緊張が消え、好色な笑みを浮かべる者もいる。リーダー格の男が顎をしゃくり、一美と沙世子は肩や腰を小突かれて、歩くことを強要された。

 

 男達の言う「事務所」に向かう道は、進むに連れて異様な雰囲気を示し始めた。屋台の列、テントや段ボールハウスの集積だけでなく、道全体を覆うような巨大な天幕がアーケードのように続き、その下は、市場と酒場と住居を混ぜ合わせたような、混沌とした空間になっていた。

(魔窟…)

沙世子が握った一美の手を通じて、そんな言葉を伝える。

(かつての九龍城かどこかを連想させるね…写真でしか知らないけど)(電球までともっとる…昼だか夜だか、わからへんな、ここ)

飲食をしている男女が多く、マリファナをふかしていると見える一団さえいる。小突かれて、迷路のような天幕の下を歩くうち、行く手を塞ぐ巨大な壁のようなものが見えてきた。近づくと、それは体育館らしい建物の横腹だとわかる。男の一人が先に走り、入り口を開けた。

 建物の中は、洞窟のように暗く見えた。さすがに一美も沙世子も息を飲み、踏み込むのをためらう。

(一美…ここは、ちょっとまずいかもしれない)

(魔王の気配?)(わからない。でも、超能力の結界が張られているかも)

「なに、ぐずぐずしてやがる!」

男達の中でも一番年若で気短そうな一人が、沙世子の二の腕を乱暴に掴む。白い肌に爪が食い込んだ。痛みに顔を歪める沙世子の横から、一美が唇を引き結んで、若い男の顔に平手打ちを喰らわした。ただの打撃ではない、掌が触れた瞬間に念動力を炸裂させ、男は地面に全身を打ち付ける。

 罵声を放ちながら、男達が二人の少女に殺到した。だが二人の姿は瞬時に消失した。男達は互いに身体をぶつけて混乱する。けれど一人、そこから離れて立っていたリーダー格の男は、にやり、と邪悪な笑みを浮かべた。ゆっくりと上着のポケットから携帯電話を出し、低い声で話し始める。

「やっぱり、鳴神一族の娘だったぜ。今、テレポーテーションしやがったが、二人とも服に例の針を刺しておいた。予定通りだな、ワクラの姐さん」

 

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 校庭での惨劇などなかったかのように、西浜中学校は日常の風景に満ちていた。授業でサッカーの試合をやっている少年達の横をすり抜けて、多佳雄とえりかは、小さな石碑に向かった。

 そこまで来ると、少年達の声もホイッスルも不思議に遠くなり、なにか、時間が停まったような感覚になる。石碑は、割れ砕けたものを丁寧に積み直してはあるが、碑文も読めない。その石肌を、老女の手が撫でている。和服を着てしゃがんだ背中は細く、多佳雄は一瞬、人違いかと思った。

「あの、成瀬奈津さんですか?」

立ち上がり振り向いた老女は、背筋をまっすぐに伸ばし、ゆっくりと頷く。凛とした気品の中に、深い悲哀が滲んでいる。

「唐沢多佳雄さんですね。一美の居場所をお教えする前に、是非ここに来ていただきたかったのです。あなたは、津村ゆりえさんと親しかったと伺いますので」

「は、はい?ゆりえさんが何か」

戸惑う多佳雄に、奈津は顔を伏せ、石碑を指した。

「この下に、ゆりえさんが眠っています」

絶句した多佳雄に、奈津は短くゆりえの死を説明した。そして、えりかに向かって言う。

「赤石えりかさん。あなたも来てくれたことは、宿縁としか言いようがありませんわね。あなたのおばあ様、赤石セイさんは、わたくしと、ゆりえさんと、女学校で親友でした。半世紀前、青い血の怪物が現れたとき、わかくしたちは、それぞれの運命の下に戦い、以来、会うことはありませんでした。けれど、ずっと…親友でした。多佳雄さん、えりかさん、どうか、わたくしと一緒に、ゆりえさんに花を供えて下さいませんか。ゆりえさんは、孫の沙世子さんがたった一人でここに埋葬しました。せめて今、わたくしは彼女を弔ってあげたいのです」

気丈な老女の目から、止めどなく涙が溢れている。

「かけがえのない友達でした。青春の日を一緒に過ごした人を亡くすと言うことは、想い出と共に心の一部が死ぬということなのですよ…」

えりかはそっと奈津に寄り添い、しゃがんで水桶に挿してある百合の花を手にした。多佳雄は茫然としている。

「まぁちゃんが、青い血で蘇って、ゆりえさんを殺した…そんな、バカな…」

 

 校門には、多佳雄達が来たときと同じように、ベリーショートヘアの背の高い女性が立っていて、奈津の顔を見ると頷き、門の柵を押し開けて3人を通す。そして小走りに、停めてある黒塗りの乗用車に向かい、奈津のためにドアを開ける。

「この方達も乗っていただきますからね」

車の後部座席は、奈津とえりかと多佳雄が並んで座っても、ゆったりとくつろげた。

「夢の島へ」

奈津が告げると、女性秘書のいつも冷静な表情に、緊張が走った。そして運転席で振り向き、奈津に尋ねる。

「奈津様ご自身が、向かわれるのですか?」

「いつもいつも、一美や淳一ばかりを死地に行かせてきました。もう、それだけでは済まないのです。車を出しなさい」

まだ、奈津から告げられた現実を受け入れることが出来ないまま、多佳雄は流れる車窓の景色に目をやり、隣のえりかを見る。少女のように初々しいえりかの頬が蒼白に変わり、握りしめた彼女の両手は、小刻みに震えていた。

「どうかした?えりかちゃん」

「…いやな、黒い、渦が、一美さんの回りに、見えるの!」

うなされているようなとぎれとぎれの呻きが、えりかの色を失った唇から漏れた。

 

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 テレポーテーションに入った瞬間、一美の全身に違和感が駆け抜けた。まるで砂を噛みながらレールを走る車輪のように、一美の神経はギシギシと軋み、ささくれ立つ。しかし一旦空間移動を始めたら止めることはできない。しっかりと沙世子の手を握ったまま、一美は突き進んだ。

(なにか、異物が私たちの身体に!)(あかん、コントロールがきかへん!)

二人の少女は思念で絶叫した。自分たちには見ることが出来なかったが、沙世子のワンピースのスカートと、一美のシャツの袖に、まち針のようなものが刺さっていて、紫色の脈動する光を放っていた。意図する移動と全く異なる、巨大な力の渦に巻き込まれ、二人に、身体が引き裂かれそうな激痛が襲った。

 

 暗黒の中に、燭台の蝋燭の輝きがある。まるで、宇宙空間に燃える巨大な恒星であるかのように、絶対的な威厳を宿した炎。

 その光に照らされた床に、どさり!と重い音を立てて、同時に二人の少女が倒れ込んだ。しなやかな手足を力無く投げ出し、長い髪を振り乱して横たわる。薄青いワンピースの少女は完全に意識をなくしているらしく、ぴくりともしないが、黒のスラックスにボーイッシュな白いシャツを着た方は、顔を歪めてうめき声を上げる。

 倒れている二人の回りに、わらわらと人影が寄る。影達は、喜びに溢れた声で語り合う。

「鳴滝一美と、津村沙世子に間違いないね」

「そう、我らの祝祭を邪魔する、最大の障害」

「障害を転じて、祭の供物とするのだな」

「王と王妃の為に、またとない素晴らしい血を得たのさ」

「これで、われらが仇敵、鳴神一族は手も足も出ないよ」

「一番の人質だからな」

「鳴神一族さえ封じれば、この国の奴らには怖いものはない」

「たしかにね。けれど、キメラ・グループの方の押さえは」

「取引を進めているさ。王には内緒だがね」

身体がばらばらになりそうな苦痛を堪えながら、一美は腕を床に着き、起きあがろうともがく。その顔に、白い手が伸び、顎を掴んで上を向かせる。首をねじられ、一美は息苦しさに白目を剥いた。

「鳴滝一美、おまえは、あたしたちの罠にあっけなくはまって虜になったのさ。この針!」

若い女の声が勝利感に満ちて一美を打つ。白い手が一美の袖に刺さっていた針を抜き、一美の顔に突きつける。

「あたしたちが念を込めたこのちっぽけな鉄は、おまえがテレポーテーションをすると、自動的にこの場所へ引きずり込む誘導標だったんだ」

一美が力を振り絞って首を振り、怒りの声をあげる。

「うちの、心を読めや!うちは、まぁと魔王を探しに来た。戦わずに済む方法を話し合いに。まぁと魔王、それにあんたら魔多羅衆が、平和に生きていく道を…」

白い手が、無慈悲に一美の顔を床に叩き付ける。針が一美の手の甲に突き立てられる。一美は声も出せずに苦痛にもがく。

「おまえは、生け贄になるんだ!その血を一滴残さず絞って、我らが王の結婚式の祝杯に注ぐのさ!」

狂的な笑いが、蝋燭の炎を揺らして長く続く。

 

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 東京湾を横断し、川崎から大田区へと北上した奈津の車は、平和島で停車した。居並ぶ倉庫の一つに、車ごと乗り入れたのである。

「ここは…前線基地、とでもいうのかな」

降りたった多佳雄が呟いた。倉庫の中は、電子機器とモニターが並ぶ区域と、車両整備の工場、簡易ベッド数十とソファが置かれた居住区とでも言うべき部分に分かれて、10数人の男女が緊張感を漂わせている。

 モニターに向かっている30歳くらいの女性に、奈津は声を掛ける。

「一美は今、どこです?」

「それが…」

振り返った女性の額に汗が浮かんでいた。

「数分前に、夢の島公園の中でテレポーテーションをした瞬間に、一美さんの存在が感知できなくなりました。津村沙世子さんも一緒です。システムの異常かどうか、今調べているのですが…」

「遠距離の移動をしたの?」

「いいえ、発せられたエネルギー量からすれば、数十メートル程度の筈なんですが」

女性エンジニアの不安が、一帯に広がりつつあった。奈津は、えりかを振り返る。

「えりかさん。あなたは黒い渦が一美の回りに見えるとおっしゃいましたわね。その黒い渦には、どんな意図が感じられて?」

赤茶けた髪を揺らし、えりかは目を閉じる。

「邪悪でした。罠を仕掛け、一美さんを…呑み込もうとしていました。命の危険が…」

その言葉を遮って、ヘリコプターの接近してくる爆音が倉庫を揺らす。ローターの巻き起こす風が、窓ガラスを振るわせ、倉庫の屋上に着陸した様子が、多佳雄にも感じられた。すぐに荒々しい靴音がして、鉄の階段を駆け下ってくる数人の男が見えた。先頭の、黒のジーンズに白いTシャツを着た若者を見て、多佳雄は叫んだ。同時に奈津も声を上げる。

「あんたは、伊那谷で会った、トオル!」

「来てはいけないと命じたはずですよ、淳一!」

二つの名で呼ばれた若者は、しかし、多佳雄にも奈津にも応えず、女性エンジニアの肩を掴む。

「システム異常なんかじゃない。一美は魔多羅衆に捕らえられたんだ。僕が行くから、テレポーテーションの誘導波を出してくれ」

「淳一、勝手なことは許しません!」

奈津の全身から、凄まじい怒りと絶対的な威厳が噴きあがり、傍らにいる多佳雄とえりかは息を飲んだ。

 

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 しかし若者は怯まない。首の後ろで束ねた長髪を揺らし、奈津の威圧を跳ね返す強い視線で言葉を発する。

「奈津様、僕は今まで一度だけあなたに逆らいました。一美との婚約を願うあなたに反して、僕は亜希を選んだ。反抗はその一回だけにしようと誓っていた。でも、今、一美の危機に、僕を外すのは納得できない。僕は一族の『飛車』なのでしょう?飛車を落として、魔多羅衆に勝つのは至難の業だ」

奈津の言葉も気迫のこもったものだった。

「一美が大切なことと同じくらい、あなたも一族にとってかけがえがないのです。魔多羅衆との戦いは、死戦となります。一美とあなたの両方を失ったら、わたくしたちに未来はない。命令に従いなさい、淳一!」

淳一はきっぱりと首を横に振る。

「僕は一美の思いに応えてやれなかった。心が分かってしまう僕たちだから、どんなに一美が傷ついたか、奈津様も知っているはずだ。だから僕には、一美を助けに行く義務があるんです」

「つまらない感傷に左右されている場合ではありません!」

奈津は絶叫する。目を吊り上げて、女性秘書に命じる。

「ひかる!蔵人を呼びなさい!淳一を呪縛してここにとどめなさい!」

ひかると呼ばれた女性秘書は間髪を入れず、人差し指と中指を揃えて額に当て、目を閉じて何かを念じる。その長身の横に、墨が滲むように黒い影が現れ、徐々に人間の形を取る。

「うわ…くらんど…って、あんたも伊那谷に来てた」

驚く多佳雄の言葉に、出現したスキンヘッドの男は、頑丈な作務衣の肩を揺すって、淳一に鋭い視線を放つ。淳一は掌で目を覆い、うめいた。

「やめろ…こんな事をしているうちにも、一美は…」

狼狽した多佳雄は、えりかの肩を掴んで質問する。

「あの、坊さんみたいな人は何をやってるんだ」

「…念殺者…念動力で相手の心臓や肺を操って、意識をなくさせたり、死なせることもできる…あのお坊さんみたいな蔵人と、ひかるって秘書は双子のきょうだい…特別に強い思念波で呼び合える…」

うなされるように呟いていたえりかは、大きく目を見開き、踏み出した。

「やめて下さい!仲間同士で争っている時ですか!」

ひ弱そうな外見からは信じられないほど力に満ちた声に、蔵人が目を剥き、奈津までもが驚いて振り返った。

 

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「魔多羅衆が一美さんと沙世子さんをどうするつもりなのか、問いただすのが、先でしょう!」

えりかの叫びに、蔵人が軽蔑の視線を向けて呟く。

「あいつらと交渉なんかする余地はない。何百年も仇だったんだ」

苦行僧をおもわせる蔵人に、えりかは怖れる色もなく反駁する。

「そうやって、お互いを滅ぼすまで戦うつもりなんですか?鳴神一族と魔多羅衆は、同じ過ちを繰り返して怨念を積み重ねてきたんでしょう。そして、どちらも惨めな境遇に陥っていってしまった。鳴神一族は、権力者の道具に、魔多羅衆は隠れて生きるテロリスト集団に」

「黙れ!魔多羅衆の落ちこぼれが!」

いきり立った蔵人が、暗く輝く目でえりかを見据える。直感的な危険を感じて、多佳雄がえりかの前に出た。とたんに多佳雄は胸を押さえて倒れる。

「やめて!」

えりかが多佳雄に飛びつき、手を触れると、多佳雄の苦痛に歪んでいた顔が元に戻る。蔵人の目に不審の色が滲む。それはすぐに、驚愕に変わる。

「なに?わしの力が、効かないのか、おまえには!」

混乱に乗じて、淳一が女性エンジニアに、操作を強要しようとしていた。えりかがその背中にまた叫ぶ。

「闇雲に突っ込んでいってどうするんです!どんなにあなたの能力が優れていても、碧血を得た魔多羅衆に囲まれたら、手も足も出ないわ」

振り返った淳一は、唇を噛んでいる。

「時間がないんだ。そうでしょう奈津様…いや、奈津ばあちゃん!僕たちを愛してくれている、一族みんなのグランマなら。心のバリアを破って、本当のことを教えてくれ。夢の島を空爆が襲うのは、あと何時間後なんだ!」

 空爆、という言葉が、その場を凍り付かせた。全員の視線が奈津を突き刺すように見る。

 奈津は、僅かの間にひどく年老いたように、顔の皺を深くしていた。

「一美が病院で、夢の島のことを知って、勝手に出かけたことが、全ての誤算でした。魔多羅衆はあそこを自ら勝ち取ったつもりでいるけれど、それは日本とアメリカの首脳の意を受けた、キメラグループが仕組んだ罠。わたくしもそれに手を貸しました。魔多羅衆と、カーリー・マーに吸血されたゾンビたちを、あのゴミを埋め立てた土地へ封じ込めて、一気に地上から抹殺してしまう予定なのです」

 多佳雄が震える声で口を挟む。

「あの…あそこには、なんの関係もない人も大勢いるはずなんだが…」

奈津は何も答えない。淳一が必死の形相で喚く。

「奈津ばあちゃん、まさか一美を、見捨てるつもりか!時間は、あと、どのくらいあるんだ!」

 

      118

 二日ぶりに出席した教室で、礼子はぼんやりと授業を聞き流している。

 アーサー・マケインに頸動脈を打たれて気を失い、拉致されそうになったことの衝撃はまだ癒えていなかった。幼い頃から父に空手を習い、ナイフを持った敵すらも撃退した自分が、アーサーにはまるで歯が立たなかった。

(所詮、女の格闘技なんて、男の蛮力にはパワー負けしてしまう)

その悔しさと、きょうだい弟子としての親密感と信頼を裏切られた悲しみ。噛みしめる度にその心の痛みは増大する。

 ふと、礼子は、麻田かれんの席が空白であることに気付いた。隣の生徒の肘を突っつき、小声で尋ねる。

「ねえ、かれん、何時から休んでるの?」

「昨日からだよ。でもその前から様子が変だよね。カレシが出来たって噂だけど、ヤバイ相手じゃないかなあ」

隣席の生徒は、待っていたかのように目を輝かせて礼子に答える。前席の子まで振り返って口を挟んできた。

「ほら、今噂になってる夢の島、あそこに通ってるらしいよ、かれん。ナナセ目当てで行った友達が、かれんを見たって」

 黒板に向かっていた教師が振り返り、目を光らせたので、会話は途切れた。だが、礼子の胸はざわめいている。

(あたしが、今、できること、しなければならないことは、かれんのことじゃないだろうか?一美や沙世子みたいに、超能力で活躍は出来ない。でも、かれんのことを考えているのは、あたししかいない!)

 教師や級友の視線を怖れる感覚は、既に礼子にはなかった。手早く教科書と筆記具を鞄に投げ込み、ためらうことなく立ち上がった。

 

     119

 JR内房線から京葉線に乗り、新木場駅に着こうとする時、礼子の携帯電話が鳴った。少しためらったが、礼子は鞄から引き出し、耳に当てる。

「はい、沢渡です」

憤りを含んだ父の声が、礼子の耳を刺す。

「学校を早退したそうだな、今、どこにいるんだ」

礼子の、携帯電話を握る掌と額に汗が滲む。

「どうしても、気になることがあるの、父さん。行かなくちゃならないの」

どんなときでも頭ごなしに話をしたことがない父が、礼子の声を遮って怒鳴っている。

「すぐに家に戻りなさい!アーサーが、もう釈放されたそうだ。合衆国の政府筋からの圧力らしい。彼の所在は不明だ。おまえの話が本当なら、彼は危険すぎる。まだおまえを狙うかもしれない」

ごく、と、礼子は唾を飲み、携帯電話を握りしめる。鉄橋にさしかかって、車体は激しい音響を発し、会話が出来なくなった。礼子はやむなく電話を切る。窓の外の東京湾は、初夏の眩しい日差しに輝いている。

 

 一美と沙世子は、十畳ほどの一室に監禁されている。部屋は薄暗く、紫の間接照明と、漂う薫香の煙に満たされていた。光も香りも、ひどく幻想的で非現実な雰囲気を与えていた。

 二人とも、古代ローマ風の白い服を着せられ、ベッドに腰を掛けている。一美は頭を押さえていた。

「まだ、痛むの?」

沙世子が訊ねると、一美は首を横に振る。

「痛みはないねんけど……ぼうっとして、ちっとも身体に力がはいらへん」

「私もそうよ。きっと、このお香のせいだわ」

一美は悔しそうに唇を噛み、沙世子に泣きそうな顔を見せる。

「ごめん、沙世子。うちが強引に連れ出して、こないなことになってしもて」

沙世子は強い口調で否定した。

「私は後悔なんかしてないわ。残念なだけよ、まぁと話をしなければならないのに、閉じこめられてしまって」

「なんとか……外と連絡、とれへんかな」

一美は力を振り絞り、テレパシーを外界へ飛ばそうとする。空しい努力に、すぐにその顔は絶望に曇る。

 

 日差しの降り注ぐ夢の島公園の一角に、凄まじい人だかりがある。その中心に、巨大なトラックの荷台をそのままステージにして、マイクを握り、歌い続ける少女がいる。

「夢を夢のままにしていたくない

 でも夢を腐らせるこの国で あたしは蛹のままに殺される

 極彩色のゴミにまみれて 息絶えるあたしに

 せめてあなたは 本物の花を捧げて

 腐敗していくあたしの亡骸に 花の種が落ちて

 いつかゴミの島は花畑に変わる

 その日を夢見て……」

可憐な容姿から発せられる、凄艶な歌声に酔っているのは、若者ばかりではない。ホームレスの老人も、ネクタイをゆるめた中年のサラリーマンも、教祖を見つめる熱狂的信者の瞳で、歌姫・ナナセを見上げているのだった。

 

     120

 倉庫の中では、えりかが奈津に詰め寄っている。

「あたしが、使者になります。魔多羅衆の血が流れているあたしなら、交渉の糸口になれます。一美さんと沙世子さんを取り戻すために」

 奈津はまぶしそうにえりかの若い頬を見つめる。

「あなたの祖母、赤石セイさんは、魔多羅衆にとっては裏切り者ですよ。戦意に満ちた今の彼らが、まともにあなたの話を聞くかしら?」

「交渉するからには、こちらから相手に与えるものがなくてはなりません。空爆の事を知らせれば、魔多羅衆だって」

蔵人が怒りの声を挟む。

「そんな秘密を漏らせば、おれたち一族に火の粉が降りかかって来るぞ!よそ者が勝手なことを言うな」

「空爆なんて、絶対にさせてはいけないんです!」

えりかは怯まない。

「武器を持った人間は、無慈悲でけもの以下の存在になってしまいます。一度、銃で生き物を撃った人は、どんどん相手の痛みを感じる心を失っていく。殺戮の道には果てがありません。ピンポイント爆撃とかを考えているのかも知れないけれど、戦闘機に乗ったパイロットは、きっと見境なく夢の島にいる人を撃つに違いないわ」

えりかは、蔵人にまっすぐ指を突きつける。

「それに手を貸すのなら、あなたも、人でなしになる道に進むのよ。あたしは絶対許さない」

 頑丈な顎を食いしばり、床に唾を吐くと、蔵人はえりかから目をそらし、奈津に口早に提案する。

「こんな世間知らずの小娘の世迷い言を聞いている時間はない。奈津様、一美さん奪還の指令を与えて下さい。私が隊長になって、なぐり込みを掛けます。日のあるうちなら、魔多羅衆も動きが鈍い筈だ」

 奈津は、蔵人の言葉を聞いていない。目はえりかと、多佳雄に向けられている。ためらいながら、老女の唇は、信じられないほどか細い声を発した。

「えりかさん……あなたは、怖くないの?」

倉庫の全員が、静まり返った。えりかは、泣き笑いの表情を浮かべた。

「怖いに決まってます。吐きそうなほど、魔多羅衆のところへ行くのは恐ろしい。でも、やらなければならないことから逃げたら、自分が許せなくなるから」

「えりかちゃん、私がついていくよ」

多佳雄が、緊張した雰囲気に気圧されながらも、きっぱりと言い放った。

 奈津は目を閉じた。祈りの言葉を呟いているかのように、皺ばんだ唇が無言で動き、そして瞼を開いた。

「空爆が始まるのは、明日の深夜零時です。えりかさん、交渉役を頼みます。」

奈津のその言葉は、誰の反論も許さない凛としたものだった。

 

      121

「それじゃ、僕が一緒に行かせて貰う」

淳一が叫ぶと同時に、蔵人も唸るように言う。

「おれが護衛につくぞ」

 奈津はきっぱりと二人の申し出を拒む。

「おまえ達が行けば、即座に戦いになります。えりかさんに行って貰う価値がなくなってしまう。ひかる、車を用意なさい」

その場の鳴神一族全員が、動揺して奈津にすがるような視線を向けている。淳一が驚愕の表情で呟く。

「冗談じゃないよ。奈津ばあちゃんが乗り込むなんて、そんな馬鹿な話」

「一美が捕らえられる前から、そのつもりでいました。青い血の魔王と魔多羅衆との対決は、わたくしが半世紀前に決着を付けきれなかったもの。命を張って責任をとらなくてはなりません。それに」

言葉を切り、奈津は、微笑して一族の一人一人を見つめていく。

「いつも若い者達を危地に赴かせていたわたくしです。一族のためと命令に従い、命を落とし、亡骸さえ闇に埋もれた者が何人もいます。その痛みの分だけ、わたくしは老いてきました。これ以上、若いあなたたちを一人でも失うのは、耐えられないのですよ」

 鳴神一族の中から、すすり泣きが漏れた。淳一が唇を噛み、何か言おうとする。奈津が機先を制して命じる。

「淳一、今からおまえがこの場の司令です。そして、わたくしが戻らなかったら、一族の長を継ぎなさい。不二彦も了承しています。一美は必ず取り戻します。二人で力を合わせて、一族を守り、未来を開きなさい」

 淳一の答えを聞かず、奈津はえりかと多佳雄を促し、歩き始める。秘書のひかるが倉庫の扉を開く。午後の陽光が、強く倉庫に射し込んだ。その光の中を、奈津は振り返らずに出ていった。

 

     122

 なぜ、駅から出て、歩いているんだろう。帰りの切符を買って、すぐに家に戻るつもりだったのに。

 新木場駅の駅舎から、足早に離れながら、礼子は自問している。

 一美と沙世子という、心強い友もいない。危険なアーサーは拘置所から放たれている。父からの電話で、帰宅する決意をしたはずだった。なのに、熱に浮かされたように改札を抜け、潮の匂いと人間の活気の中へ足を踏み入れてしまった。

「かれんを、探さなきゃ」

 礼子は、目的であるそのことを呟いてみる。頭を振る。どこかそれは本音ではない。しかし深く考えることができない。それより先に身体が勝手に動いてしまっているのだ。

 制服姿では、場の雰囲気から浮いてしまうかと懸念してきたが、杞憂に過ぎなかった。中学生や高校生の女の子も、よく目に付く。晴れて気温が高いので、カーディガンや上着を脱いだブラウスが眩しく日光を反射している。少女たちの頬は上気し、目は好奇心で輝いている。

 不意に囁き声の波が、礼子の回りを駆けめぐる。

「ナナセが」「うそ」「あっちあっち」「ライブしてるって」「どこ?早く」「待ってよ」「行かなきゃ」

 緩やかに生じた人間の流れは、瞬く間に奔流と化して礼子を巻き込む。急ぎ足から駆け足に、そして全力で走り出した女子高生や若者達の群れに引きずられ、礼子は夢中で突き進む。

 三〇〇メートルも走ったかと思う頃、少女の歌声が切れ切れに飛び込んできた。

「夢は……極彩色のゴミ……あたしの亡骸に……花畑」

 人垣が立ちふさがり、走ることは出来なくなった。歌が終わり、熱狂した拍手と歓声が人の海の向こうから津波のように押し寄せる。何とか前に出ようと、人垣の切れ目を探して歩き回る礼子だが、同じ事を考えている人間とぶつかり、揉み合い、もがいた。また、曲が始まったらしい。今度は歌詞がよくわかる。強くビートを効かせた歌だ。

「退屈な日々を我慢し続けて

 ひび割れてしまう前に

 一生に一度のお祭りをしよう

 今いるここが 聖なる土地

 神はきっと降臨する

 愚図でタコなあたしに

 女神は必ず微笑む

 誰も愛してくれないあたしに

 優しい言葉なんかいらない

 轟く太鼓とぶつかり合う肌

 祝祭の熱狂と暴虐に

 涙と汗と血を流して

 あたしは今夜 黒の巫女」

 シャウトする歌手の姿が、揺れる人波の彼方に見えた。礼子は、背筋に強烈な戦慄を感じた。その小柄な歌い手から放たれているオーラが、自分の身体を貫いたような気がしたのだ。

 

     123

 それが最後の曲だった。聴衆が、ステージになっている大型トレーラーに押し寄せて、大混乱になっている。電動ルーフが持ち上がり、ステージを覆って、舞台は貨物車へと変身した。ガード役らしい屈強な男達が、肉弾戦に等しい強力な排除をして、トレーラーが動き出した。

「ナナセ!ナナセ!」

群衆から大コールが湧き起こる。地面を踏み轟かして、トレーラーのあとを数百人が追いかける。

 礼子は、本能的に突っ走っていた。熱に浮かれた人波の中を、ただ一人醒めた瞳で縫っていく。一人また一人と、急速にトレーラーの追尾をやめていくので、やがて礼子は人波を突破して、先頭に出ていた。

 息はあがり、心臓は爆発しそうだ。それでも視線は、鋭くトレーラーのシルエットを捉える。人気の少ない並木道で、スピードを落とし、一瞬停車した。幾つかの人影がトレーラーから降りて、小路に入っていく。その中に、礼子は確かにナナセらしい小柄な姿を認めて、歯を食いしばって足を早めた。

 息を整える暇もなく、礼子は小路への角を曲がる。目の前に、大柄な男が身構えていた。とっさに停まることが出来ずに、礼子はたたらを踏む。男の巨大な掌が、顔面につかみかかってきた。左に身体を投げてかわし、地面で転回して、礼子は起きあがった。

 しかし立ち上がった正面に、別の男が待っていた。神速の動作で、男は礼子の右腕をとって逆に決め、背後からのどに腕を巻き付ける。

「動くと腕が折れるぜ」

耳元で囁いた声には、なんのためらいもない。礼子は全身に冷たい汗が噴き出すのを感じた。

「うわあ、おもしろい!この子、一美やかれんの友達なんだ。アオイ婆ちゃんなら、宿命とか言い出すだろうなあ」

まるで場違いな、幼い少女の朗らかな声が響き、礼子は戸惑う。長い金髪を垂らし、だぶだぶのカーゴパンツを履いた女の子が近寄ってくる。大きなサングラスを、ひょい、と額にあげる。

「あんた…ナナセ!」

驚く礼子に、息が掛かるほど少女は接近し、しげしげと瞳を覗く。

「ちょうどいいや、この子、連れていこ。一美のテレパシーガード破るのに、使えるよ」

少女=ナナセの目が、いたずらっぽく輝く。少し小さめだが、野生の子鹿のように瑞々しく澄み、生き生きとした瞳。礼子は直感した。

(この子…超能力者だ!あたしの心を、読んでいるんだ)

護衛役らしい男達に目配せしたいたナナセが、礼子に振り返り、小さく舌を出す。

「へへ…そういうことだよ、沢渡礼子。大丈夫、痛いことはしないから。一美達だって、大切に扱ってるからね」

「え?どういうこと?…まさか一美も捕まってるの!?」

思わず大声を出した礼子は、決められた腕に激痛が走って、言葉を呑み込んだ。

 

    124

「やめなよ。そんなことしなくてもいいよ、この子は」

礼子の腕をねじ上げている男をたしなめると、ナナセは、手を差し出した。

「一緒に行くよね?」

あどけない顔と細い身体で、どうしてあんな迫力の歌声を出せるのだろうと思いながら、礼子はナナセの手を握った。見掛けは中学生くらいだが自分よりも遥かに年上のような気がした。

 

 徒歩で数百メートル、人気のない小径を辿って、いきなり体育館らしい建物にぶつかる。非常階段を昇って、ナナセは礼子を建物の3階あたりに引き込む。護衛の男達は、建物の外に残った。

 最初礼子は、中が全くの闇だと思った。ナナセがゆっくりと手を引いてくれるので、辛うじて進むことが出来るが、本能的な恐怖で足がすくむ。やがて、廊下の所々に、微かな光を放つ電球のようなものがあることに気付く。今まで観たこともない、紫色の淡い輝きだ。

 やがてナナセが、一つの部屋のドアに手をかざす。カタリ、とロックが解けて、ドアは軋みながら開いた。内部は、廊下よりも少し輝度の高い紫色のランプで照らされている。驚いた表情で、中年の女性が椅子から立ち上がった。看護婦のような服を着ている。ナナセが頷いて、無言で中を指さすと、中年の女性は眉をひそめながら、しぶしぶと鍵を手にして案内に立った。

 部屋の奥の頑丈な鉄扉に、鍵を突っ込んで解錠すると、看護婦のような女性は部屋の入り口へ戻っていく。ナナセは小さな手で重い扉を押し開け、礼子を目で呼び入れると、扉を閉ざした。

 二つのベッドが並ぶ、ホテルのツインルームのような部屋。目眩を誘うような甘い香りと紫の光が充満している。二人の少女がベッドに腰掛け、礼子に視線を向けていた。一美と沙世子だった。

 驚く礼子の前で、ナナセがベッドの上の二人に、朗らかな声で尋ねた。

「なんで、超能力者なんかに生まれたんだろう…そう思ったこと、ある?」

 一美が、礼子を見て小さく呟く。

「つかまったんか、礼子も」

 沙世子がナナセをまっすぐ見据えて答えた。

「あるわ。何度も。当たり前じゃない。どうしてそんなことを聞くの?」

「だったら、あたし達の気持ち、分かるでしょ?超能力を持っていても、びくびくせずに暮らせる、あたし達の王国を作るんだよ。一美も沙世子も、仲良くやろうよ」

 ナナセは子猫がじゃれるように、沙世子の隣に腰掛けて上目遣いに見上げる。沙世子はじっとナナセの瞳を覗き込む。

「あなたはそう言うけれど、私たちは、魔王とその妃に血を捧げる生け贄なんでしょう?」

「ああ、そのことね。あたしが頼めば、生け贄は代わりでOKになるかもよ」

 軽々と言い放つナナセに、沙世子は眉を曇らせる。

「あなたが、カリスマのような歌姫だから?」

 一美も不審そうに問いかけた。

「歌なんて、伊那谷では一つも歌うてへんかったやろ?なにがあったん?」

 ナナセはおぼろに霞むような微笑を浮かべた。

「悲しくて悲しくてやりきれないから、歌ったんだ。そうしたら、あたしの歌声には、凄い力があることが分かった。…どうして悲しかったって?お母さんに碧血を掛けたのに、生き返ったお母さんは、お母さんじゃなかったから」

 

     125

 一美と沙世子の顔が歪む。それと対照的に、ナナセの顔はどこか神々しささえ感じさせるほどに穏やかに微笑んでいる。

「お母さんはお墓の中で、なんだかよく分からない真っ黒な人形みたいになってたよ。碧血をその胸に垂らしたの。凄かった。見てるうちに真っ青な血管が走って、心臓がバクバクして、真っ赤な肉が盛り上がって、真っ白な皮ができて、ぞわぞわっと髪の毛が伸びて、生きてたときより綺麗なお母さんになって生き返った。嬉しくてとびついたの。でもお母さんは、何も答えてくれなかった」

 ナナセはベッドから立ち上がり、腰の後ろで手と手を握り、ゆっくりと歩き回る。

「抱きしめる代わりに、お母さんはあたしののどを絞めた。牙みたいに光るお母さんの歯が迫って来るのを見ながら、あたしは気絶したの。気がついたらもうお母さんはいなかった。ヘライたちが処分したって」

 処分、という言葉が礼子の胸を刺す。沙世子が顔を伏せ、一美は唇を噛んだ。ナナセは一美の正面に立ち、息が掛かるほど顔を近づけて喋る。

「碧血をくれるあるじ様はほとんど不死身だけど、碧血で生き返った者は、そうじゃないの。そしてもう一回死んだら、もう碧血は効かないんだって」

「なんで、そんなことを教えてくれるん?」

一美がナナセから顔をそむけ気味にうめく。ナナセはすがるような視線を向ける。

「あたし、力を貸して欲しいんだ、一美や沙世子に。えりかに連絡を取って、雄太を起こしてもらいたいの」

 飛躍の多いナナセの話に、礼子はついていけない。だが一美や沙世子にはすぐに理解できるらしい。一美がまっすぐナナセを見て問いかける。

「えりかの恋人の、雄太?ここにいはるの?」

「あたしと一緒に撃たれて、その場であるじ様が碧血をくれたの。あたしは、おかげで生き返ってこの歌声まで貰った。でも、雄太は、目を覚まさないんだ。生きてはいるけれど、どんどんベッドで痩せていくの」

 笑顔だったナナセが、雄太の話をするうちに幼子のような泣き顔になっていく。

「あたしじゃ、雄太の夢の中に入れない。くやしいけど、えりかならなんとかなるかもしれない。お願い、生け贄は代わりを見つけてあげるから、あたしのお願いをきいてよ!」

 

      126

 車は、夢の島目指してひた走る。ほとんど振動も騒音もない、素晴らしい乗り心地。V型12気筒搭載、トヨタ・センチュリー。ほぼVIP専用車である。

「もう、こんな自動車に乗ることはないだろうなあ」

多佳雄が茫洋とした顔で呟く。

「命賭けて乗り込んで行くんだ。全部教えて欲しいなあ。奈津さん、私が伊那谷で会ったあの青年は、トオルと名乗ったけど本当は淳一と言うんですね」

 奈津が無言で頷くのに、多佳雄は重ねて質問を浴びせる。

「彼が一族の飛車だと言うからには、一番戦闘能力が高いわけだ。それと一美ちゃん。彼女も一族の中では特別扱いらしい。二人で力を合わせて一族を導けとおっしゃっていた。淳一君や一美ちゃんの能力というのは、どんなものなんです?」

 奈津は深々とシートに身を沈め、目を閉じて答える。

「私どもの一族においては、超能力というものは、常人の能力と反比例するのが普通です。つまり超能力が強いと、一般的な五感や体力は弱くなるのです。一族で最強のテレパシーを持っているわたくしの姪は、耳が聞こえません。そこにいる秘書のひかるは、素晴らしい反射神経と体力がある代わりに超能力はほとんど使えません」

 運転しているひかるは、まったく奈津の言葉に反応することなくハンドルを握っている。

「超能力が優れている者は必ず心身のどこかに障害があります。それが、淳一と一美だけは例外なのです。淳一は理想的に健康な男子で、念動力とテレポーテーションは一族でも随一。そして一美は、健やかな乙女でありながら、一族が長い間失っていた能力を秘めています」

奈津の言葉に熱がこもる。

「あの子は、天空から雷を呼び、敵の頭上に落とすことが出来るのです。それこそが一族の長(おさ)のしるしだったのですが、もう数百年もその力を持つ者は生まれてこなかったのです。わたくしのような非力な者が長を務めて、一族は衰退し続けてきました。あの子は一族の未来の希望なのです」

 黙って聞き続けていたえりかが、哀しげな色を瞳に宿す。

「一族にとって大切だから、一美さんを助けに行くのですか」

えりかの言葉に、奈津は答えようとしない。

「あたしは、一美さんも沙世子さんも、それから、雄太も、魔多羅衆も、誰一人傷ついて欲しくない。命の大切さに序列なんかない。そう思っていますから」

控えめながら、えりかはきっぱりそう言って、前方に視線を戻した。多佳雄は、驚異のまじった賞賛の目で、えりかを見つめた。

 

      127

 湾岸線を走るセンチュリーは、東京港トンネルに潜り、騒音が高くなって多佳雄もえりかも口を閉ざす。

 闇を抜けた地上はお台場だ。ここで湾岸道路に降りてフジテレビの建物を左手に観ながら駆け抜け、新都橋を渡る。不意に運転席のひかるが緊張した。センチュリーの後方から、甲高いバイクの排気音が接近してくる。晴海通との交差点は赤信号。停車した車の両側を大排気量の黒いバイクが挟んで、空噴かしの轟音で威嚇する。

「奈津様、これは魔多羅衆ですか?」

ひかるが感情を見せずに訊ねる。

「ええ。ついてこいと言っています。道案内をさせましょう」

奈津が答えたとき信号が青に変わる。2台の黒いバイク=ヤマハV―MAXは、後輪から白煙を上げながらダッシュし、センチュリーの前に出る。ひかるは滑らかに加速しながら、悠々とV―MAXのあとに着いた。

 曙運河を渡れば瞬く間に夢の島である。道路の両側は露店やテントで埋め尽くされている。2台のバイクは蛇行しながら明治通へと左折し、夢の島公園へと進入していった。そこは、さらに無秩序に屋台やテントが立ち並んでいる。

 爆音を残し、バイクは露店の隙間を縫って姿を消す。進めなくなったひかるはやむなく停車した。周囲から、おびただしい視線が磨き上げたセンチュリーに集中する。いきなり、フロントガラスで何かが砕けた。貼り付いた黄色い汁がどろりと流れ落ちる。生卵だ。ドアや側面ガラスにも軽い衝撃が弾ける。

「石を投げられていますよ」

多佳雄が眉をひそめる。奈津は動じない。

「すぐに、迎えが来ます。投石ぐらいでは、窓も割れませんから安心なさい」

「先に降ろしてください」

唐突にえりかが言い、中腰で立ち上がって多佳雄の膝の先をすり抜け、ドアを開いた。罵声が車内に流れ込む。しかし、えりかが地面に足を下ろしたとたん、声も投石もやんだ。

 慌ててえりかを追って車を降りた多佳雄は、取り囲んだ群衆の多さに唾を飲み込む。反感と嫌悪の感情が津波のように襲ってきて、息をするのも困難だ。

 だが、群衆の視線が揺らぎ、注意が多佳雄たちから外れた。なにか巨大な流れが人の波を割って進んでくる気配がある。えりかが背筋を伸ばし、厚い人の壁の向こうをうかがう。

「来るのか?」「ええ、多佳雄さんは、車に戻った方がいいわ」

えりかの言葉に、多佳雄が反発しかけたとき、悲鳴と共にひしめく群衆が割れた。

 

      128

 開いた空間に躍り出てきたのは、さっきの2台のV-MAXだ。黒い車体に太いタイヤが、甲虫のような印象を与える。ライダーも黒革のスーツに身を包み、艶消しブラックのジェットヘルメットを被り、サングラスをしている。

 2台の大型バイクは、人垣を分けるために、大きく排気音を立てて突進してきたらしい。派手に急ブレーキを掛け、後輪を滑らせるとセンチュリーの鼻先で、ぴたりと車体を横に向けて停止する。二人のライダーは歯を剥きだして笑い、挑発する。奈津とひかるはまだ車から降りない。

「おい、私たちは、喧嘩に来たんじゃない。話をしに」

「待って!まだ誰か来ます!」

ライダーに声を掛けた多佳雄を、えりかが鋭く制止したとき、ブン!と空気が振動した。巨大な弓の弦が鳴ったような音だ。

 V―MAXの後方上空、10メートルほどの空間に、黒い染みがぼんやりと浮かび始めた。見る間にそれは人の姿を形作っていく。驚愕の叫びが群衆からあがる中、宙に出現した者は、ゆっくりと地上に降りてきた。濃紺のスーツを着た、四〇代の男性。オールバックにした髪を艶やかに光らせ、浅黒い顔には精悍な表情を漲らせている。

 男は、多佳雄やえりかには見向きもせず、車内の奈津に向かって嘲った。

「成瀬奈津、鳴神一族の影の長(おさ)、いや、真の長が自ら出向いてくるとは、恐れ入ったぜ。遠話で話を付ければ早いのに」

 運転席のドアが開き、降り立ったひかるは素早く後席のドアを開ける。奈津が和服の裾を鮮やかにさばいて、多佳雄とえりかの前に出る。老女の静かな声が、ざわめく群衆の上に、涼やかに降りかかる。

「常人の前で、これみよがしに能力を見せるのは、感心しませんね。アオイはそんな不作法を許しているの?」

 髭剃り跡の濃く見える顎をのけぞらせ、男は馬鹿にした声で笑う。

「もう俺たちは、常人に遠慮などしない。不作法だと?ここでは俺たちが作法や法律を作るのさ。お袋を知っているのだな。見て驚くぞ。じぶんの皺くちゃ顔と見比べるがいいさ」

 奈津の声に初めて驚きが混じる。

「おまえ…アオイの息子のキリト!まあ、気弱なマザコン男が、尊大な口を利くようになったものだねえ。でも、素性は争えないね。やくざのように品がないのは一緒」

 男=キリトは、ぎらりと凶暴な眼光を奈津に刺す。

「碧血を得た俺たちの力を、すぐに思い知ることになるぞ。無駄口はこれまでだ。一美の命乞いに、何を持ってきた?」

 

 

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