その1

 

 

 

 

 

 その1・復活の谷

      1

 雨上がりの散歩は、いつもなら大好きだ。けれど今朝は違う。数十年に一度という凄まじい雨だった。川は牙を剥き、彼女の愛する木々を喰らった。

 赤石(あかし)えりかは、唇を噛みしめて、地崩れの跡を見つめる。しかし、やがて首を振ると、若草色のTシャツに、赤味がかった髪をふわりと揺らして歩きだす。絡み合った木の根を巧みに避けて行くほっそりした肢体は、どこか妖精じみている。

 その黒い瞳が、不意に一点を凝視する。大きく見開かれ、驚きの色を浮かべる。えりかは、風のように走り、集中豪雨に耐えて大きく枝を張っている栂(つが)の大木に駆け寄った。

 しばらくは立ちすくむしかなかった。その根元には…彫像のような一つの姿があった。

 雨に濡れそぼった、制服らしい白い服をぴったりと肌に貼り付け、濃緑のチェック柄のスカートの膝を抱えて、うずくまっている少女がいた。顔は膝頭に伏せられていて見えない。長い黒髪はうなじから背中の中程まで垂れているほか、豊かに腕を覆っている。

 全く動こうとしない少女を見つめながら、えりかは息を飲んだ。少女の全身から、絶望、の感情が立ち上っているように思えたからだった。

 震える指をさしのべ、少女の肩に触れる。冷え切ってはいるが、命の気配は感じられた。そっと身を寄せ、赤い髪を黒髪に添えるようにして、抱きかかえる。

 その時、えりかの耳に、聞き慣れたエンジン音が響き、すぐに傍らまでやってきた。古ぼけたヤマハ・セロー。223CCのトレールバイク。ヘルメットを脱ぎもせず、ライダーはえりかに叫んだ。

「道がずたずたにされてて、天竜川に行き着けなかった。いわゆる、陸の孤島になっちまったぜ!」

 えりかは、ライダーに頷いたが、再び、うずくまっているぐしょ濡れの少女を抱きしめる。えりかの顔に苦痛の色が浮かぶ。さながら、少女から滲みだした痛みを、我がものとするかのように。

 

      2

 バイクのサイドスタンドを土に突き立て、ヘルメットをハンドルに掛けると、山添(やまぞえ)雄太は、小走りにえりかに近寄る。陽灼けした顔に戸惑いを浮かべ、栂の根元寄り添うふたりの娘を見比べる。ぴくりともしない少女の様子に、視線が凍る。

「どうしたんだ、その子…死んでるのか?」

雄太の声にえりかは首を横に振った。

「ううん、身体は大丈夫。冷え切ってるけど熱は出てないし、脈も確かだよ。とても強い子みたい。でも…心が砕けてしまうほどの何かを、体験したみたいな感じ…」

そう言うとえりかは、少女の折れ曲がった身体をゆっくりと抱え起こす。栂の巨大な根塊に背中をもたれさせるようにして、少女の顔に貼り付いた黒髪をそっと払いのける。

 えりかと雄太は同時に息を飲み、同じ言葉を口にした。

「綺麗な子!」「美人、いや、美少女、だな」

細い眉とくっきりと通った鼻筋が高貴なイメージを与え、閉じられた瞼は儚く薄く、まつげの長さが優雅だ。整った顔立ちに清純さが匂い立つが、下唇の厚さがややアンバランスな妖艶さを漂わせている。

 しばらく美貌の少女に見とれていた雄太が、慌て気味に声を出す。

「意識がないのか…でも、救急車はとても来れないぜ」

「大丈夫。体を拭いて暖めてあげれば、目を覚ますと思うよ。雄太、この子を背負って」

 少女は思いのほか長身で、一七〇センチほどの背丈と思われた。登山で鍛えている雄太も、気を失っている少女を背にして、崩れやすい山道を歩くうち、全身に汗が噴き出す。その苦しさを紛らす意味もあって、ひっきりなしに喋り続ける。

「ぐるっと見て回ったけど、道は全部ダメだった。完全にここの村、孤立してるぜ。家はだいたい無事だったらしいけど、畑も簡易水道の配管もやられてる。それから、土砂崩れの一番凄いのは、ほら、村の奥にある、古い寺…光全寺とか言ったっけ。お堂も鐘楼もなにもかも流されて、三石川に呑み込まれちまってた」

黙って頷いていたえりかが、そこまで聞いて、びくっと肩を震わせ、まじまじと雄太を見つめる。

「光全寺が…お墓はどうだった!?」

噛みつくような勢いでえりかが尋ねるのに、雄太は怯みながら答えた。

「ああ…お墓…墓地もみんなひっくるめて、なくなってたよ」

えりかの顔に焦りと恐怖の色が浮かび、今にも駆け出しそうになるが、雄太の背中の少女を見やって、かろうじてその衝動を抑える。

「封印が…破れたんだね。おばあちゃんに知らせないと」

えりかは唇を噛みしめ、独り言のように言うと、携帯電話を取り出した。

 

    3

「だめかな…山影になるから、やっぱり電波届かないかな…」

通じない携帯電話に、えりかが顔をしかめる。そのとき、雄太の背中で、少女が身じろぎをした。目を閉じたまま、歯を食いしばり、うめき声を上げる。慌てて雄太は肩越しに少女を見る。

「気が付いたの?」

えりかは電話をかけるのをやめ、デイパックからビニールシートを取り出すと素早く地面に広げた。もがき始めた少女を、雄太がその上に降ろす。

「大丈夫、大丈夫だよ!」

えりかは、起きあがろうとする少女の手を握り、温かい声で励ます。シートに横たわった少女の瞼が震え、ゆっくりと開いた。

 アーモンド型の大きな目が、焦点を失ったまま視線を虚空にさまよわせる。えりかは、再び声を掛ける。

「もう、大丈夫。あたしの服貸してあげるから、着替えて温かいものを飲もう!」

少女は、はっとえりかの顔に目を向ける。えりかは少女の瞳から、強烈な力を感じて、からだがこわばった。

「ここは…どこやの?うちは…どうして?」

それは十代半ばの、まだか細い声だった。目を開いた少女の美しさに呆然としていた雄太が、しゃがみ込んで尋ねる。

「君…関西の子か?どないして一人で、土砂降りの中におったん?」

「うちは…かれんを探して…」

少女は絶句して、絶望の表情になる。かれんは慌てて雄太に指示した。

「話はあとだよ、すぐお湯湧かして、紅茶いれてよ。ここじゃなくて、ちょっと離れて!」

 

 ポリタンクの水をシエラカップに入れ、携帯用ガソリンストーブで湧かして、ティーパックを漬け、角砂糖を三個溶かし込んだ。それから雄太は、木立越しに声を掛ける。

「もう、そっち行っていいか?」

「うん、早く持ってきて」

少女は、グリーンのスウェットスーツを着て腰を下ろし、その髪をえりかが拭いていた。雄太の差し出した紅茶を、目を伏せたまま受け取り、少しずつ啜る。頬に赤みが差してきたのを見て、えりかが微笑む。

「お風呂に入りたいよね。こんな素敵な髪なのに、砂まみれになっちゃってる…」

紅茶を飲み干した少女は、えりかと雄太を見上げて、こくりと頭を下げた。

「おおきに」

えりかが、自分と雄太の名前を告げて、少女の名前を尋ねた。

「うちは…かずみ。鳴滝一美いいます。千葉の、高校に通うてます」

「え?でも関西弁やん」

首を傾げる雄太に、えりかが口を尖らせる。

「雄太だって、丹後出身のくせに東京の大学に行ってからは、標準語まがいを喋ってるんでしょ」

「まあ、そうか。それで、どうしてこの南アルプスの奥まで来たんや?友達とか家族は一緒やなかったの?」

一美は黙り込む。再び顔を絶望が暗くする。その時、えりかはぎくりと振り返った。木立の間から、数人の視線を感じたのだ。

 

     4

 濡れた土を踏む複数の足音に、雄太も気づく。

 野獣の群れ、一瞬そう感じたほど、彼らは原生林に紛れて接近してきていた。

「誰だ?駒峰の人じゃないな!」

雄太はえりかの前に出て身構える。えりかは目を細めて吊り上げ、緊張した表情だ。

 ほとんど物音を立てずに、木陰から三人の男女が現れた。細面の、二十歳ぐらいの娘を真ん中にして、左には、巨人と言っていいほどの大柄で筋骨の発達した若者。右には、どこと言って特徴のない中肉中背の三十歳くらいの男。三人とも、迷彩色のシャツにポケットの多い作業ズボンを履き、足は頑丈なコンバットブーツで固めている。

「老いぼれしかいないと思っていた駒峰に、こんな生きのいいのがいたのか」

右の男が白い歯を見せて冷たい笑いを浮かべる。平板な顔だが笑うと酷薄な雰囲気が漂う。

「ちょうど良いわ。狩りに行く手間が省けた。連れていきな」

娘が、ポニーテイルの髪を揺さぶって顎をしゃくる。巨漢が無表情に進み出る。

「小学校、に、行く。逃げる、な」

巨漢は身体に似合わない甲高い声で告げると、雄太の腕を掴む。瞬時に雄太は全身が痺れ、抵抗できなくなった。

「小学校って、駒峰の分校のことか。言われなくたってそこに行くつもりだったんだ」

雄太が声を振り絞ると、えりかも、リーダー然と振るまっている娘に叫ぶ。

「分校にいた駒峰の人、どうしてるの!」

娘は片方の眉を高く上げ、しかめ面になって呟く。

「みんな、そのままさ。爺いと婆あが五人。碧鹿(あおしか)村役場の野郎が一人。おまえらも含めて、これからは私らの言うとおりにして貰うさ」

「いったいなんだ、おまえら…」

わめき掛けた雄太の耳元に、えりかが唇を近づける。

「今は、彼らの言うとおりにしよ。とにかく早く、分校へ」

そう囁くと、えりかは一美を抱えて立ち上がらせ、デイパックを背負った。

 

      5

 昨日、えりかと雄太は、バイクでツーリング中に豪雨に遭い、たまたま道の側にあった大きな木造建物に駆け込んだのである。そこは赤石山脈の西側、碧鹿村の駒峰集落で、建物は廃校になった碧鹿小学校駒峰分校の校舎だった。

 そこには土砂崩れの危険をのがれて、集落の住民全員が避難していた。ただし全員と言っても老人ばかりたったの五人。そのほか村役場から世話役として、職員が一人派遣されていた。八人でランプの灯を頼りに、凄まじい雨の一夜を耐えたのだ。

「ふん、旅の者か。それで、その女の子は?」

歩きながら、えりかの説明を聞きおえると、ポニーテイルの娘は、一美に顎をしゃくる。雄太が腹立たしげに呟く。

「こっちにばかり喋らせて、そっちこそ何様だよ」

ぐい、と巨漢が雄太の肩を押し、きしるような声を出す。

「黙って、歩け」

「あたしたちもさっき遭ったばかりだよ。なるたきかずみさんっていうんだって。そのほかはまだ…」

えりかが答えると、ポニーテイルの娘は直に一美に問いかける。

「バイクは二台、ヘルメットも二つだけ。おまえはこのふたりの仲間じゃないな。どこから来た?」

 一美は、うつむいて歩くだけで答えない。娘の目に怒りの稲妻が走ったように見えた。それに敏感に巨漢が反応し、一美のジャージの胸ぐらを掴む。えりかがその手を掴む。

「やめてよ、この子、とても疲れてるんだ。話すのは分校に着いてからでいいでしょ」

「そうだ、こんなとこで締め上げるのはやめとけ、ヘライ」

三十歳くらいの男が巨漢に呼びかける。そして娘に向かって冷笑を浮かべながら言葉を続ける。

「早く学校に連れていけばいい。ナナセも来ている。喋らせないでも、こいつらが何者か、読んでくれるぜ、そうだろ、ワクラ」

「ふん、言われるまでもないさ、ジグル。さあとっとと歩きな」

ワクラと呼ばれた娘は、唇を曲げ、ジグルという名前らしい男から顔を背けると、足を早めた。やがて山道はなだらかになり、木立が終わって視界が開けた。

 狭くて、雑草がたけ高く生えているが、そこは学校のグラウンドだ。ここ、碧鹿村・駒峰集落においては、数少ない平地。村の最上の土地に学校を建てたのは、子供たちのために最高のものを用意したいと願った、美徳の現れだろう。けれど、その学校に子供たちの姿がなくなって久しい…

 瞬時、そんな感慨に囚われたえりかの眼前に、小さな影が立ち上がった。見るはずがないと思っていた、子供の姿に、えりかは目を見張る。

 それは、小学校五年生くらいの女の子。白いTシャツに短パンで、足には革のサンダル。なによりも特徴的なのは、太ももに触れるまでに垂れる長い髪だ。そして整った顔立ちに微笑を浮かべ、えりかの前に、小鳥のように、ちょんとジャンプして立った。

 えりかの顔に驚愕の表情が浮かんだと同時に、女の子は嬉しそうに叫んだ。

「ワクラ、この女の人、白い魔女だよ!」

 

      6

 渋谷駅に近いコーヒーショップ。

 隣のテーブルに陣取る数人のけたたましい会話に、沢渡礼子は複雑な思いで聞き入っている。

 スラングを多用した、ニューヨーク住民らしい会話。「帰国子女」として日本に来て、四年が過ぎた今、礼子はずいぶん「英語」を忘れてしまっていることに愕然としていた。冷えて苦いだけのコーヒーをごくりと飲み込む。

「やあ礼子、待たせたかな」

力強く明るい声が、頭上から降ってきた。見上げる礼子の前には、K―1出場選手と紹介されてもおかしくない、精悍でみごとな体躯をした白人青年が、青く澄んだ瞳で笑っている。

「アーサー、ありがとう来てくれて」

礼子が立ち上がり、手を差し伸べると、青年は関節に胼胝(タコ)の出来た掌で、少女の手を優しく包んだ。そして、短く刈り上げたブロンドを輝かせながら席に着く。身のこなしは猫科の猛獣のように優雅だ。

「疲れた顔だね、礼子。夕べもほとんど寝てないんだろう。一昨日、林間学校の帰りに、長野県で君のクラスメイトがふたりも行方不明になったんだってね」

アーサーと呼ばれた青年の日本語は、アクセントも含めて完璧である。

「とても寝てなんかいられない。でも高校生のあたしは学校と家に縛られてて、なにもできないの。だから、アーサーに頼みたいのよ」

熱意を込めて見つめる礼子の瞳に、アーサーは深く頷く。

「ほかならぬ師匠のお嬢様のご依頼だ。喜んでお引き受けしよう。じゃあ、この調査票に必要なことを書き込んでもらえるかな」

ごつい手が、書類鞄を開いて、クリップで綴じた用紙を取り出す。

「君のふたりの友人の、身長、体重、髪型…そう、家族構成や趣味、判る限り詳しくデータを書き込んでくれ。もちろん写真は持ってきてくれたね?」

「ありったけアルバムから剥がしてきたわ。でもかれんのは山ほど有るのに、一美のはほとんど集合写真しかなかったの」

 アーサーは顔をしかめて、数枚の写真を眺めると、視線を礼子の顔に戻す。

「これではだめだ。礼子、これから…鳴滝一美の自宅に連れていってくれ。そこで写真を貰おう。そのあとで麻田かれんの家にも回ろう」

手早くテーブルの上の書類を片づけると、アーサーは立ち上がる。慌てて後を追いながら、礼子は店に入って始めて顔をほころばせた。

「さすがに本物の探偵さんは、行動が敏速なんだね」

 

   7

 アーサーの運転するデミオの助手席で、礼子はまどろんだ。夢はまた、あのシーンだ。

 七ヶ月前の初冬、あの日も、ひどい雨だった。傘を差していても、アスファルトから跳ね返る雨粒で、制服のスカートが重く冷たくなった。

 学校帰り、まぁ…花宮雅子と一美が、急ぎ足で前を行くのが見えた。歩行者用信号が点滅し、一美が立ち止まる。だが、まぁは、何か考え事をしていたのか、傘で見え辛かったのか、そのまま横断歩道に踏み込んだ。

 ブレーキの音はしなかった。ろくに減速もせずに左折した赤い乗用車が、まぁの身体をボンネットに跳ね上げ、灰色の空に飛ばした。

 息をするのも忘れ、礼子は立ちすくんでいた。傘を投げ捨てて駆け寄った一美が、叫んでいる。

「まぁ!まぁ!…なんでや、なんでこないなことに!」

マネキン人形みたいに転がったまぁに覆い被さり、一美は雨を全身に浴びていた。礼子は、駆け寄ろうとして、次の瞬間、激しく瞬きをした。雨に煙っているのかと見えたまぁと一美の姿が、路上から消え去っていたのだ。

(救急車も呼ばずに、一美はあっと言う間に、まぁを救急病院に運んだ。でも、まぁは)

夢とうつつとも付かず、礼子は回想している。

 花宮雅子の葬儀…棺は火葬にされず、カトリック教会の墓地にそのまま葬られた。一美は床に就いていて、出席できなかった。そして長く学校も欠席した。まぁを守れなかったことに、底知れない衝撃を受けているらしかった。

(そして、林間学校の帰り、集中豪雨で足止めになったあの駅で、かれんがいなくなった)

 聖アガタ女子学院高等部一年から、まぁと一美、礼子とかれんは同じクラスになり、親しかった。

 クラス委員でしっかり者のまぁ、甘えん坊ではしゃぎ屋のかれん、ニューヨークからの帰国子女で空手師範の娘である礼子、そして頭脳も運動神経も優秀、おまけに美貌だけれど孤独な一美。べたついた仲間ではなかったけれど、四人は不思議なほどに気が合っていたのだ。

(それが今は、あたし一人しか…)

 

     8

 まぁの死がショックだったのは礼子も同じだった。だが、あの日の事を繰り返し思い出すのは、やはり、まぁと一美が瞬間的に消え去ったという異様な光景の謎が引っかかるためである。

 混乱の中で記憶が欠落したのかと思った。見間違い、思い違いだと納得しようともした。けれど、その後の一美の、極端なまでの落ち込みぶりを目にするに付け、礼子には理解しきれないことが広がる。

(一美にとって、まぁはそんなにも大切だったの?確かに転校してきた一美に、まぁはとても親切に接した。まぁの親衛隊のあたしやかれんが妬くほど、ふたりは気持ちが通じ合ってた…でも、そんな風になるきっかけは何だったの?)

 車は、川崎から東京湾を横断する道路に入った。一美の家も、聖アガタ女子学院も、そしてまぁや礼子の住まいも、渡った先の木更津にある。

(なにか…忘れてしまっているような気がするんだ、あたし)

 一美とまぁ、さらには自分も関わっている、とてつもなく大切な記憶が、失われているような気がして、礼子は長い長いトンネルの道の中で、唇を噛みしめた。その時、アーサーが話しかけてきた。

「礼子、目が覚めたかい?一美の家に着く前に、情報を頭に入れておきたい。何故彼女は、苗字が鳴滝なのに、『成瀬』という家に住んでいるんだい?」

「彼女は出身が京都なのよ。木更津では親戚の家にお世話になっているんだって。お年寄りの夫婦が保護者ってことになってるらしいの」

「保護者の職業は?」

「えーと、たしか…占いをやってるとか聞いたわ。でも街角で相性とか見てくれるんじゃなくて、大会社の社長とか政治家とかがお客で、料金がすごく高いんだって」

「占い…ホロスコープかね?」

「詳しいことは知らない」

アーサーは、ハンドルを握り、前を見たまま、肩をすくめて首を振る。

「欧米でも、占星術師に頼る経営者や政治家はそう珍しくないけどね。だが日本の占いや宗教…は、なかなか僕には理解できない。近代的な科学技術と古代のオカルト的な精神土壌が、こんなにも平気な顔をして同居している国は、そうはないだろうね」

 やがて車は海を越えた。夕闇が海岸を包んでいる。

 

    9

 廃校に灯油ランプの明かりが点った。残照が西の空にはわずかに残っているが、山脈の上には星が力強く瞬き始めている。時折その光が遮られるのは、飛翔する蝙蝠たちの翼が遮るのか…

 窓越しに見える宵闇の空を見上げながら、えりかは煤で汚れた頬を絞ったタオルでこすり、ほっと息を付いた。十数人分の夕食を、ふたりで作らされたのだ。停電の上、廃校にはプロパンガスの設備もなかった。数十年前に使うのをやめたらしい給食室の設備はなんと薪を使うかまどで、必死で掃除をし、錆びた鉄の釜を磨き上げて飯を炊いたのである。

「えりちゃ、疲れたずら。おまえさの歳じゃ、薪でおまんま炊くなんてはじめてずらに」

六十八歳という歳の割りにつやつやと頬の赤い、多恵婆さんが、並んで手を洗いながらえりかに笑い掛ける。多恵は駒峰集落で一番若いので、えりかと一緒にワクラが食事係に選んだのだ。

「ううん、やったことあるよ。でもまさか、学校の羽目板壊して薪に使うなんてね。とにかく、ここには井戸があるんで水には困らないし」

えりかは苦笑して、給食室を見回す。手押しポンプで汲み上げる井戸の横には、ヘライという巨漢が力任せに剥がしてきた羽目板が天井に届くほど積み上げてある。

「それにしたって、いったいどういう衆なんずら。あの人ら…」

多恵はえりかに肩をぶつけるように身を寄せ、声を潜める。

「えりちゃはまだ見とらんら。あの衆、四角い大きな石を、職員室に運び込んだんだに。ありゃあ間違いなく、お棺だわ」

「石のお棺?そんな重いものをどうやって…」

「それが気味が悪いんな。お棺だっちゅうことだけでも気味悪いのはもちろんだけど、あの衆、リヤカーもなにももっとらんのだに。だのにあの、恐ろしく痩せたおばあまが、にたにた笑いながら、息子らしい男の背中におぶさったまんま、杖を振ると、するするっと道を滑って、校門に入ってきたんだに。わしゃあもう、怖くて怖くて」

「多恵ばあちゃ、それ、他の人も見たの?」

「いんね、わしゃあだけずら。うちのおじいまの薬を取りに、うちに帰ろうとしとったもんで」

 えりかは顔を洗うのを忘れて、多恵の話に聞き入る。学校に連行されて、すぐに雄太とも一美とも引き離され、給食室で食事の用意を命じられたため、学校の状況はまだほとんど掴めていない。多恵と話そうにも、時々ヘライが見回りに来るし、やるべきことは多すぎたし、ろくに喋ることが出来なかった。

「あいつら、全部で何人なの?」

「痩せたおばあまと、息子らしいのと、孫みたいな女の子、それから、若いおねえまと、あのでかいあにいま、きつい目のちょっと年取ったあにいま、それに、看護婦らしい女衆と、その弟らしいのが三人…」

多恵は指を折りながら喋り続ける。その時、廊下の床が軋んで、ヘライが開けたままの引き戸からぬっと顔を出した。

「そっちのおまえ、来い」

太い指がえりかを指す。怯えた顔の多恵が、えりかを身体の後ろに押しやってかばう。

「な、なんな、乱暴なことをするのかな、許しておくんな」

ヘライは眉を上げ、ぽかんと口を開ける。わけが分からないと言う顔で多恵を見る。

「乱暴、なんか、しない。ナナセが、遊び相手に、欲しいと」

「はあ?遊び相手?」

多恵もヘライに劣らぬほど、口を開けて間の抜けた顔になる。えりかは多恵に頷いて、進み出た

 

     10

 廃校の建物は、教室・職員室・倉庫によってなる平屋建て本棟と、炊事施設を備えた給食室の棟、さらに小さな体育館とで成り立っている。それら三棟がコの字を描いて、グランドを囲んでいた。

 給食室を出たえりかは、ヘライに腕を掴まれて、本棟に入る。その向こうの体育館が、駒峰集落の人や雄太、一美が閉じ込められている場所で、何本もランプが灯っていて明るい。だが、本棟はまるで暗かった。

 闇の廊下、躓きそうになるえりかをぐいぐいひきずって、ヘライは職員室のドアに近づく。それを待っていたかのようにドアは音もなく開いた。

 蝋燭の光がえりかの目を射た。その揺らめく炎を映す瞳が四つ…ワクラとナナセだ。ヘライはえりかを部屋に押し込むとそのまま退く。ドアが再び音を立てずに閉まる…誰も手を触れていないのに!

 えりかが目を丸くすると、ワクラが頷いた。

「そうだよ、私らは…そういう力を持つのさ。私は、思うだけで物を動かせる…アオイのお婆には及ばないけどね…」

「その子…ナナセは、心が読めるのね?」

えりかが指さすと、ナナセは嬉しそうに頷く。

「えりかは、白い魔女。私たちマタラ衆の裏切り者だって、アオイお婆ちゃんが教えてくれたよ」

 えりかは唇を噛む。その脳裏に浮かんだ思いを、そのままナナセが歌うように口にする。

「えりかのおばあちゃん、普通の男と恋をして、マタラ衆の絆を捨てた。ここから五〇キロくらい北の山里で、薬草を摘んだり、癒しの力で病気を治したりして、普通の人間に好かれようとして生きてきた。それが、白い魔女。えりかのお母さんもそう。そしてえりかも」

ワクラが、ぺっ、とえりかに向かって唾を吐く。

「ふん、白い魔女、か。気に入らないね。私たちが黒い魔女だって言うのかい。くだらない普通の野郎と血を混ぜたもんだから、おまえなんか、ろくな能力を持ってないだろう」

ナナセが、目を半眼にしてえりかの瞳をのぞき込み、呟く。

「…風の声、樹の言葉を聴けるんだね。へええ…鉄砲を使えなくしてしまう、そんな力があるんだ」

「なんだそれ?」

ワクラが呆れてえりかに説明を求める。

「あたしの見ている前では、誰も鉄砲を撃てないんだ。ライターもマッチも、火薬も、点火できなくさせることが出来る。雄太は、あたしが磁場を作ってるんじゃないかとか言ってたけど、あたしは理屈は判らない」

ナナセが、少し顔をしかめ、唇を尖らす。

「その雄太って男の人、えりかの恋人だね。えりかが白い魔女だって知ってるのに…なんだか口惜しいなあ」

 

      11

 えりかは大きく息を吸い、ワクラに向かって問いかける。

「マタラシュウって言ったわね…魔多羅衆…おばあちゃに聞いたことがあるよ。特別な能力を守るために、普通の人間とは交わらない一族。そのあなたたちが、ここに来たのは、やっぱりあの光全寺の結界が破れたせいなの?」

 ポニーテイルを揺すり、勝ち気な目の光をさらに強めて、ワクラはふん、と鼻で嗤う。

「破れたんじゃない。破ったのさ、私たちが。昨夜の雨が、ただの集中豪雨だったと思うのかい?…まあ、常民に尻尾を振ってるおまえなんかには、私たちの力の強さは想像できないだろうね」

 えりかは絶句する。立ちすくむ彼女の前に、ナナセが小走りに進み出て、楽しそうに告げる。

「私たちみんなで、祈ったんだよ。もっと降れ、どんどん降って、嫌らしいお寺を押し流し、あるじ様の棺が、川の流れに浮かぶようにって!」

「あるじ…様?」

えりかのつぶやきに、ナナセはさらに小躍りして叫ぶ。

「そうなの!素敵なお方なのよ。私たちずっと待っていたの。どんな願い事でも叶えてくれるの。私はお母さんとお父さんを…」

「ナナセ!黙れ!」

激しい叱責の声と同時に、ナナセの小柄な身体が宙に舞う。空中で、少女の顔は恐怖にひきつった。

「ごめんなさい!許してワクラ姉さん」

くるくると数回転して、ナナセは床に転がり、怯えた目でワクラを見上げる。えりかは思わず駆け寄ってナナセを立たせた。どこにも怪我はしていないようだが、少女は反射的にえりかの肩にすがって顔を埋める。

「おまえは、放っておくと余計なことをいくらでも喋る。悪い癖だよ」

ワクラはナナセをにらみつけると、ぷい、と顔をそむけて歩き出す。手を使わずにドアを開けると、振り返って言い残した。

「えりかとか言ったね。今夜はここでナナセと一緒に寝ろ。ナナセ、下らないお喋りはいい加減にしておけよ」

ナナセはえりかにすがったまま頷いていたが、ワクラが出て行くと、舌を出して笑顔になった。

「ねえ、えりかと一緒にいた、高校生のお姉さん、面白い人だね」

「え?」

唐突な話題に、えりかが戸惑うのをよそに、ナナセの口は動き続ける。

「あの一美ってお姉さんの心、ほとんど霧が掛かってるの。自分の名前と、千葉の高校に通ってて、かれんっていう友達を捜していることくらいしか、覚えていないんだよ。記憶そーしつ、なの」

 

     12

 体育館といっても、広さはバスケットボールのコートの半分ほどしかない。一方の壁際にマットや布団を敷いて、老人たちがぼそぼそと会話をしながら座っている。その反対側に、雄太と一美が居た。

 ウレタンマットの上に寝袋を敷いてもぐりこみ、雄太はふてくされたような姿勢で寝そべっている。横にはえりかの寝袋もあるが、空っぽだ。そこから少し離れて、一美は肩に毛布を掛け、背中を壁につけて膝を抱えている。

 ランプに照らされる白い顔に、黒い瞳は凍ったままだ。だが時折、ランプの灯が揺れると、一美の目の奥でも、何かが動くように見える。雄太は、素知らぬ振りをしつつ、ずっと一美に注目していた。

 やがて夜が更けると、迷彩色のシャツを着た若い男がランプを消しに来て、ただ一つの明かりを残すのみとなった。闇が体育館を覆い、老人たちも寝静まる。

 凄まじいほどの静けさだった。人里の夜には、自動車の騒音を始めとして、何らかの人工的な音が絶えず聞こえる。だがここにあるのは、深い山並みの果てしないしじま…

 毛布のこすれる音がした。雄太は闇の中で大きく目を見張る。一美が、ゆらり、と立ち上がった。毛布を落とし、グリーンのジャージ姿が、ゆっくりと体育館の床を横切っていく。板戸を軋ませて、一美は出ていく。

 雄太は、厚手の靴下を履いた足で、そっと後を追った。

 本棟に続く廊下は全く明かりがない。だが、星空の明るさで、一美は躓くこともなく歩いて行く。雄太の耳に、一美の足音以外に、何か聞こえてきた。話し声だ。

「…そう、何だって叶えてくれるんだよ、あるじ様は。えりかは、どんなお願いがあるの?一番のお願いはなに?」

「それは、いろいろあって、一つに選ぶのは迷うけど…ナナセは?」

「私はね、あるじ様にお願いすることは、もうしっかり決めてるの。フフ…それはね、死んじゃったお母さんとお父さんを生き返らせて貰うこと!」

 少女のその言葉に、一美のからだがびくりと痙攣したのを雄太は見た。一美は、声の聞こえてくる部屋のドアに、ぴたりと身体を寄せた。

 

       13

 しばらくの沈黙の後、えりかの声がした。

「ナナセのお母さんとお父さん、いつ亡くなったの?」

「お母さんは私を産んですぐ。お父さんは去年。お父さん、とっても悔しがってたよ。あるじ様が復活すること、お父さんの予知能力で判ったんだもの。だけど病気で死んじゃった」

「生き返らせるって…どうしたらそんなことが出来るの?」

「うん、あるじ様に血を貰うの。あるじ様の血って、綺麗な緑色で、それを死んだ人に呑ませると、どんなに日にちが経っていても命が戻るんだって」

 がたん!とドアが鳴った。掴んでいた一美の手に不用意な力が込もったらしい。ぴたりと室内の会話が止む。一美はしばらく身じろぎしなかったが、大きく息をつき、顔を上げてドアを開いた。

 蝋燭の明かりが、室内から漏れだした。その光に照らし出された一美の顔は、紅潮している。目はきらきらと輝き、唇は何かを言いたそうにわなないていた。

「うふふ…思った通りね。一美の心、面白い事をいっぱい隠してる。私と、同じ願い事を持ってたんだ」

ナナセが、愉快でたまらないというふうに笑い出した。透明で無邪気な笑い声だったが、廊下に潜む雄太は、首筋の毛が逆立つような気がした。

 一美が、震える声を発した。

「あんたやの…さっきからうちの頭の中に、声を飛ばしてきたのは…でもそれほんまやの?亡くなったひとを、ほんまに…」

「まぁ?変な名前だね。それが一美の生き返らせたい人なんだ」

「まぁ…ああ…まぁ!」

オウム返しにナナセの口にした名前を呟いた一美は、すがるように部屋の中へ入っていった。

 

 

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