その2

 

 

 

 

 

 その2・鮮血の渓流

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 成瀬家は、規模は小さいものの、古く威厳のある洋館である、屋根のスペイン瓦の上に、おびただしい星が瞬いている。こんなにも空気が澄んでいるのは珍しいと礼子は思った。降り続いた雨が、大気の塵も洗い流したのだろうか…

 インターホンで用向きを伝えると、女の無機的な声が応対し、やがて門が開く。白いブラウスに黒いパンツスーツ姿の女性が、礼子とアーサーを迎え入れた。ベリーショートヘアで細おもて、目尻が切れ上がった鋭い容貌である。年令がよく分からないが、身のこなしに無駄がなく、礼子は、彼女が何か武道を身に付けているように感じた。

「こちらでお待ちください」

女はその一言だけを告げ、応接間にふたりを残して立ち去る。

「この家具は…全部、イタリア製らしいな…本物のリッチマンらしい、成瀬氏というのは」

アーサーが部屋を見回しながら呟いたとき、樫の木のドアが開き、和服姿の老女が、さっきの女性を従えて入ってきた。アーサーと礼子は立ち上がり、会釈をする。

 成瀬奈津と名乗った老女は、一美の写真を貸して欲しいという礼子の申し入れを、じっと目を合わせて聞き入っていた。話しながら、礼子は奈津の目が、一美と似て強い光を放つことに気づいていた。

「お話は判りました。私どもも、人をやって一美の行方を探しておりますの。そちらのアーサー・マケインさん、宜しくお願いしますね。今、写真を持ってこさせます」

奈津は柔らかな声で語り、黒いスーツの女性にとりにやらせた。

 アーサーが身を乗り出す。

「成瀬さん、では、そちらの捜索で、今までに何か手がかりは掴めましたか?」

 奈津は、じっと若い米国人の顔を見つめる。艶やかな黒髪で若々しく見えるが、その表情は底知れない老成を示して、礼子は微かな畏れを抱いた。

「マケインさん、とおっしゃいましたわね。わたくし、あなたのことを存じております。けれどこれ以上お話をするのは、お互いに良くないことだと思いますわ。写真をお渡ししたら、それで失礼させていただきたいのですけれど」

 礼子はあまりに意外な言葉に驚き、奈津とアーサーを見比べる。アーサーは無表情になり、目を細めて冷たい声を吐く。

「…なるほど、ナルカミ一族長老のあなたには、全てお見通しというわけですね。結構、長野県で、あなたの部下…いや、一族の戦士というべきか…彼らと競いあうのが楽しみですよ」

 

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 一族の戦士。

 アーサーの口にしたその言葉が、礼子の脳裏に不思議な映像を結ばせた。

 制服の上着を脱ぎ捨て、白いブラウス姿の一美。額に赤いバンダナで鉢巻きをし、真紅の顔料を目の下から目尻、こめかみにまで引いている。礼子はアメリカ滞在中、キャンプ地での観光で、ナバホ族の戦士の踊りを観た。その化粧に似て、一美の表情は、見せ物のインディアン戦士とは比べものにならないほど、激しい闘志に満ちていた。

(なに?これは。いったい、何時、こんな一美を見たんだろう…)

 写真を受け取って、成瀬邸を出るまで、ほとんど会話はなかった。アーサーがデミオを発車させ、礼子の家に向かう道に入ったとき、ようやく礼子は言葉を発することが出来た。

「アーサー…どういうこと?成瀬家の人を前から知ってたわけ?ナルカミ一族って、なに?」

 アーサーは、礼子に目を向けようともせず、冷静なハンドル捌きで前を行く車を次々と抜き去っていく。答えないつもりなのだろうか、と礼子が眉間に皺を寄せたとき、アーサーは呟くように言った。

「成瀬、鳴滝、鳴海、成山、成木、奈留森、成道、鳴子、也末、…ナルカミ一族は、そんな苗字を持っている。ナルカミというのは、雷…雷神のことだ。古代インドのルドラ…後にシヴァ神となる神を崇拝し、天から雷電を呼んで敵を打ち倒す、超能力者集団だと言われている」

礼子は、唖然としてアーサーの顔を食い入るように見つめる。

「いったい、なにが言いたいの?アーサーらしくないよ」

怯えた礼子の顔に、不意にアーサーは振り向き、思い切り笑顔になる。

「なんてね!そんな噂を聞いたんで、かねてからあの家には興味があって調べてたのさ。黙っていて悪かった」

 礼子は、激しく動悸を打つ胸を押さえ、深く息を付く。そんな礼子に、アーサーは堰を切ったように話しかける。

「日本を代表するようなエクセレントカンパニーの経営者が、あの成瀬家に占いを依頼してるのは、公然の秘密だよ。日本の指導層がオカルトにはまってるのは、かなり有名なんだ。君が持ってるポータブルMDを作ってるZONY、あそこに、エスパー研究所があるのを知っているかい?ベンチャー企業の旗手と言われる、洛セラの会長は、透視能力者と親しいそうだ。他にもそんな話はいくらでもある。そして、成瀬家を中心にしたナルカミ一族は、その筋では海外でも注目の的なのさ」

「全然、知らなかったよ。そんな話…」

「でも、それは今回の件ではあくまで枝で、本筋と関係ないことだ。大丈夫、僕は一美の探索に全力を尽くすからね」

 そう語るうちに、デミオは礼子の家の前に着いた。なんどかアーサーは食事に来たことがある。父も今夜は帰っているはずだ。

「アーサー、寄って行ってよ」

「いや、このまま長野に向かうよ。時間が惜しい。一美を早く見つけるのが最優先事項だろう?」

アーサーは誠実な表情で言い放ち、礼子を降ろすと、エンジンを吹かしてたちまち視界から遠ざかる。礼子は、デミオのテールランプを見送りながら、胸の中のもやもやした感じをぬぐい去ることが出来ない。

 

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 家に入ろうとした礼子の背中に、遠慮がちな声が響く。

「あの、お嬢さん。沢渡礼子さん、ですよね。ちょっといいかな…」

 振り向いた礼子の目に、背の高い痩せた中年男の姿が、街灯に照らされて浮かび上がる。よれよれのブルゾンに黒いジーンズ、色あせた帽子をかぶり、大きなショルダーバッグを肩に掛けている。年齢に似合わない少年じみた表情で、大柄な割に柔らかい雰囲気の男だ。

「何か、ご用ですか?」

「うん…麻田かれんさんのお母さんに頼まれて、かれんさんの捜索に行くんですよ、私。これでも一応、探偵ですから。あ、失礼、私、唐沢多佳雄といいます」

そこまで言うと、男はまじまじと礼子の顔を見つめて、真剣な表情になる。礼子もまた、相手の顔に視線を当てたまま、首を傾げる。そして同時に言葉を発した。

「どこかで…お会いしましたかね?」

「前に、会ってるような気がする…」

 沢渡家の応接間。礼子は紅茶を入れて、自分と唐沢の前に置く。

「そうか…まぁちゃんの葬儀のとき、カトリック聖アガタ教会で一緒に…」

唐沢は紅茶に砂糖も入れずに口に運びつつ、頷いている。礼子はじっとティーカップを見つめている。

(それだけだろうか?もっと他でこの、「動物探偵」さんとは体験を共有したような気がする…)

「かれんさんと、鳴滝一美さん、お二人は飯田市で行方不明になった…。林間学校の帰り道、それも雨で高速が通行止めになって、予定外に寄った場所ですよね。飯田駅で休憩して、トイレに行ったり、お土産物屋を覗いたりしていて、集合時間にかれんさんが戻ってこなかった。そうしたら、一美さんが探しに雨の中へ飛び出して、やはり戻ってこなかった…」

唐沢が喋っている言葉が、礼子の耳をすり抜けていく。あまりに悲痛だった、まぁの葬式のことが、脳裏に蘇っていた。

 敏感にもそれに気づいたらしい唐沢が、言葉を途切れさせ、やがて呟く。

「うちの息子…ふたり居るんですがね、その下の方が、まぁちゃんと親しくてね…、本人は彼氏のつもりだったようですが、奴がよくこぼしてましたよ。まぁは俺より一美さんの方を恋人だと思ってるみたいだ、ってね…。

 ところで、まぁちゃんをひき逃げした車、見つからなかったでしょ?私も、調べてみた…いや、今も調べてるんですがね…」

唐沢のつぶやきは大きくなり、礼子の顔に強い視線をぶつけてくる。

「学校のすぐ近くだったんで、事故の目撃者は大勢いました。でもナンバーは偽造だったらしく該当車がない。それって…あらかじめまぁちゃんをはねる為に、そうしたんじゃないか…と思われる。つまりあの事故は…殺人かも知れない。それでね…」

唐沢は、思い切り礼子の前に身を乗り出した。

「運転していた男の特長や似顔を、警察がモンタージュしたことをご存じかな?私もそれを貰って持ち歩いている…あれ?どこに入れたかな」

唐沢は、ショルダーバッグに手を突っ込み、焦って中を探りはじめた。礼子は苛立った。

「それが、どうかしたんですか?今は、かれんと一美の捜索を…」

額に汗を滲ませ、バッグの中身をぶちまけて探りながら、唐沢は言った。

「いや…さっき礼子さんを送ってきた車の運転手。レスラーみたいにがっちりした体格で、色白の彫りの深い男。実に似てたんだなあ…まぁちゃんをはねた赤い車の運転手と」

 

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 星明りが、煤けた窓を浮かび上がらせている。森の木々がさざめくのは風の為か、それとも自ら枝を揺すり、葉を鳴らして語り合っているのか…

 しじまを破って、廃校の明かり一つない部屋の中で会話が始まる。若い男と女の声である。

「私は、何年眠っていたのだ?」

「五十七年間でございます。その間に、テンノウは代替わりをし、昭和という元号はなくなりました。今、常民どもは、平成という元号を使っております」

「米英とのいくさは、終わったのだな」

「はい」

「それで、この国の在り方は変わったのか?」

「いいえ…うわつらは様々に衣装を代えつづけておりますが、中身はいささかも…」

「では、私は、また戦いを起こさねばならぬのだな」

「はい!わたくしどもはそのために牙を磨き続けて参りました。いつでもあるじ様のお役に立てます」

「しかし…おまえたち魔多羅衆の数は、減ったな。今この地にいるのは、十人か」

「あるじ様の復活を待ちこがれつつ、何人も逝ってしまいました。残念ながら、子供はあまり産まれず、また、常民どもに混じって生きて行くよりほか、すべを知らぬ者も増えております。なれど、あるじ様が立つと知って馳せ参じる者、目覚める者も多く現れましょう」

「だが、敵もまたやってくるだろう。鳴神一族は健在らしいな」

「あやつらは…常民に尻尾を振り、権力の犬となって今も甘い汁を吸い続けております。成瀬の爺婆には見張りを付けてありますが、まだあるじ様の復活は知られておりません」

「いや…鳴神の戦士は、すぐ近くに来つつあるぞ」

「え!?なんと」

「まだアオイが慌てることはない。私の知覚はほぼ戻ってきた。夜であったなら奇襲を受けることはない」

「そうでした。わたくしとしたことが」

「夜気が充分に満ちたな。おもてに出る」

「お待ちください。その前に、渇きを癒されなくてはなりません」

女がきっぱり言うと、男の声は逡巡する。

「…どうしても、飲まねばならんのか。森の中の獣では駄目か」

女は嘆息した。

「山は荒れて、獣もまた減りました。鹿もアオシシもなかなか見つかりません。しばらくはわたくしの用意した血を口にしていただきます」

 

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 蝋燭の光がナナセの可憐な顔に深い陰影を作る。、少女は壁際の書類箪笥の上にちょこんと腰を掛け、太ももまで届く長い黒髪をゆらして、微笑みながら一美を見下ろす。

「すこうし、頭の中の霧が晴れてきたみたいだね。鳴滝っていうんだ、一美の苗字。…私たちには苗字なんかないよ。あるじ様にもない」

「あるじ様って、ナナセ見たことがあるの?」

えりかが尋ねる。ナナセは少し顔をしかめて首を振った。

「アオイお婆ちゃんしか会ってない。まだ目覚めたばかりだからって、会わせて貰えないの」

 一美がナナセの足元に立ち、間近に顔を見上げる。大きな瞳に蝋燭の炎が映り、目の中で燃えているかのようだ。ナナセがたじろいで目をそらす。

「…会わせて欲しい…ほんまに、まぁを生き返らせてくれるんなら、うち、何でも言うことを聞くし…おねがいや」

一美の声に、ナナセはひきつった笑顔を返す。

「もうすぐ、会わせて貰えるよ、一美は。すぐに順番になるよ」

「順番?」

えりかが怪訝な顔で呟いたとき、前触れもなく部屋の扉が開いた。

 廊下の闇の中に、ワクラが無表情で立っている。その横には、えりかが初めて見る女がいた。ふさふさとした黒髪が、床に届きそうに垂れ、白い和服を着て、真っ赤な帯を締めている。異様に強い光を放つ目、艶やかに赤く光る唇。えりかは、首筋の毛が逆立つのを覚えた。凄まじいほどに精気に溢れた美しい女だった。

 ナナセが大きく息を吸い込み、歓声を上げて書類箪笥から飛び降りる。

「アオイお婆ちゃん!すごおい!あるじ様に血を貰えたんだ!信じらんないほど若返ったね、美人だったんだね!」

 白い着物の美女が、うっすらと微笑む。そして白い指をあげて、一美を指さした。

「一番目の娘は血が枯れかかっている。その娘を二番目の供物にしよう」

ワクラが振り返ると、闇の中からヘライの巨体が現れ、一美に近づく。ナナセが駄々をこねるように足を踏みならす。

「ねえ、アオイお婆ちゃん、私もあるじ様のところへ連れて行ってよ。早くあるじ様に会わせてよ!」

 ヘライに腕を掴まれ、体を固くして引きずられる一美に、えりかがすがった。ワクラやアオイに向かって叫ぶ。

「あなたたち、一美をどうする気なの?クモツって、どういうこと?」

「うるさい!」

ワクラが無造作に顎をしゃくった。同時に、えりかの体は宙に浮き、床に叩き付けられた。激しく右半身を打って、えりかはエビのように体を曲げてうめく。一美はなすすべもなく巨漢に抱えられて、廊下に歩を進める。

 

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 闇の中に、強い匂いがたち込めていた。消毒のアルコールをはじめとした、いくつかの薬品…何人もの男女の体臭…そして、生々しい血の香り。

 明かりがないことに、アオイという女もワクラも、ヘライも、なんの不都合も感じないらしい。戸惑いもなく暗黒の廊下を歩き、やがて立ち止まる。ドアが開く。

 向かい側の小さな窓から、星空が見えていた。その部屋は半分地下に沈み込んだような構造で、倉庫として使われていたようだ。だが、所蔵されていた筈の物品は全て運び出され、ただ一つの物体が、部屋の中央に凄まじい存在感を示していた。

 巨大な石の棺。

 アオイとワクラが頷き、ヘライに視線を向ける。ヘライは恐ろしく緊張した顔になり、ゆっくりと一美を、部屋の中に押し入れる。一美は、石棺から目を離すことが出来ない。物音一つしないが、石棺の中に何かの気配が感じられた。全身から汗が噴き出し、冷たく一美の肌を覆った。硬直した足で、入り口から床に向かって数段続いている階段をぎこちなく降りる。目の前に、石棺の冷たい石がそそり立つ。アオイたちがなにも声を発しないまま、ドアは閉まった。

 一美の吐く息の音だけが、部屋の中にこだまする。次第に呼吸が荒くなっていくことを、一美は止めることが出来ない。

 不意に、部屋の空気が揺れた。石と石が擦れ合う、重々しい響きが一美の全身を震わせる。石棺の上部が、小刻みに揺れながら持ち上がっていく。厚さ二十センチ、縦三メートル、横一メートル半に及ぶ、巨大な凝灰岩の一枚板が、ゆっくりと浮き上がり、微かに棺本体と擦れながら、一美と反対側の床にずしりと落ちた。

 棺の中から、影が立ち上がる。裸の男だと、一美は直感的に分かった。だが、その肌の色は、一美が認識している人間の範疇を越えていた。

 まるで、清流の淵を思わせる、碧緑の輝きを帯びた蒼白な裸体が、音もなく立ち上がる。天井に頭が届きそうなほどに長身だ。しかし大柄な人間にありがちなもたついた動きは全くない。まるで野獣のようにしなやかで無駄のない動作で、碧く輝く裸体は石棺の淵を越え、一美の眼前に降り立った。

 エメラルドのきらめきを持った瞳が、一美を見据える。男の身体は、みごとなまでに均整が取れて美しい。野放図に伸びた頭髪に縁取られた顔もまた、荘厳なまでに高貴な美を湛えていた。

 

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 一美はよろめき、後ずさりする。まなじりが裂けそうなほどに目を見開き、異形の影を見据えたまま、背中が壁にぶつかるまで後退した。

 二つの緑色の瞳もまた、まっすぐに一美を見つめている。滑らかな頬や引き締まった唇は、若々しい青年のものだ。鼻梁は高く、眼窩のくぼみも深いが、顔立ちはモンゴロイドに見える。しかし髪の色は、夜空を思わせる深いブルーだ。

 男からは血が匂い立ち、それが一美の恐怖をさらにあおる。だが、エメラルドの瞳が彼女を戸惑わせた。人間とは思えない相手だが、緑の眼光には深い知性が宿り、圧倒的な精気こそ噴き出しているものの、凶暴さは感じられないのである。

 そこだけが官能的に赤い、男の唇が、低いつぶやきを発した。

「おまえも…女学生か。しかし…奇妙な。おまえには、戦士の魂が宿っている」

「血を、血を飲むんやね、おまえは。うちが二番目の供物…一番目は…まさか!」

一美は息を飲み、絶叫した。

「かれんを、かれんの血を吸って、殺したんか!!」

 緑の瞳が、深い悲しみの色を帯びたように見えて、一美は口をつぐむ。

「殺してはいない。だがずいぶん血を貰った。あの娘は弱っている。私はこれ以上あの娘からは飲むわけには行かない。そうアオイに告げたら、おまえがやってきた」

「かれんは何処にいるん?会わせて!」

 背の高い男は、星明かりに横顔を見せて、窓に向かって歩み始める。

「だめか…これではまだ走れない。いずれ戦いは避けられないとすれば…」

 不意に男はつぶやきを止め、窓を通して空の彼方に視線を向ける。耳が、ぐいと後ろに引かれ、青い髪が、たてがみのように逆立った。

「もう…来たか。やむを得ない」

振り返った男の、緑の眼が細められ、瞬時にある決断をした表情が滲む。間髪を入れず、蒼白な影は一美の目の前に移動した。どう走ったのか一美の目では捉えられない。そして…

「すまん!」

決然たる謝罪の言葉と同時に、一美は冷たい手が顎を掴み、もう一方の手で腕ごと身体を抱きすくめられたのを知る。次の瞬間、右の首筋に異様な感触が走った。

 冷たいと同時に熱く、痛みに似て甘美な衝撃。清涼な風が首から身体に吹き込む。それと共に身体の奥底から灼熱の塊が膨れ上がり、一美は耐えられずにうめき声を上げた。

「う…うあああう!」

脳の底が、すうっと冷たくなり、視界が暗黒に呑み込まれていく。瞼を閉じながら一美はゆっくりと床にくずおれていった。

 

    21

 夜明けと共に攻撃を開始するために、男たちは重装備に汗を流しながら、ひたすら原生林に囲まれた夜の山道を歩く。

 日頃は街宣カーに乗ってばかりで、男たちのほとんどは大した体力を持っていない。だが高揚した精神力で、四輪駆動車を乗り捨ててからの数キロを踏破してきた。夢見てきた「実戦」への期待が、彼らを途方もなく興奮させていた。

 この南アルプス山中の碧鹿村駒峰集落にキャンプしているのが彼らの「敵」である。密かに軍事訓練を続けている極左過激派グループだと、男たちは知らされている。

(改造モデルガンか猟銃、せいぜいやくざから手に入れた中国製トカレフ拳銃、手製爆弾などでテロを目論んでいるのだろう、自分たちの武器には、ひとたまりもない)

それが彼らの共通認識である。持ち慣れない本物の銃器が、男たちに勝利をもたらしてくれるはずだ。

 日頃から彼らを支援している某財閥の重鎮が調達した、という説明とともに支給された装備。何一つ標識のない黒の戦闘服上下。アタックザックとジャングルブーツ。そして武器は、米国製キャリコM961Aサブマシンガン。拳銃を大型化したような本体の後部上方に、太い円筒形の弾倉が並行に載っていて、中には螺旋状に50発もの9ミリ拳銃弾が詰められている。銃自体は軽量小型なのだが、弾薬の重量で吊り紐が肩に食い込む。しかしその重さが彼らには頼もしい。ついでに言えば、黒のベレー帽も支給されたのだが、彼らはそれを捨て、日の丸の鉢巻きをしている。

 「民族主義者」と自称し、空手や居合などに親しんでいる彼らが、外国製の銃器で戦うのは、本来不本意なはずだが、誰もそんなことは気にしていなかった。冷戦終結後、暴れる機会が極端に減った中で、奇蹟のように訪れた「反日赤色分子撲滅」の、心躍る実戦なのだ。しかも公安筋も黙認していると説明を受けていた。

「過去、幾度か、君たちのような純粋な若者の力で、邪悪な犯罪者たちを闇に葬った事例はあったのだよ。心配はいらない。思うさま正義の鉄槌を揮いたまえ」

罰せられる憂いなく、存分に暴力を揮える稀有な機会だと、男たちは酔っている。

 彼らは知らない。彼らの靴底には発信器が仕込まれ、後方から行動をモニターされていることを。彼らの部隊は「捨て石の第一陣」にしか過ぎないことを。そして、彼らの「敵」が、すでにその接近を完全に把握していることを。

 

    22

 夜空に雲が広がり、星が見えなくなっていく。男たちはライトを各自に取りだし、地面を照らして歩く。原生林が途切れ、大小の石と泥で埋め尽くされた河原が広がった。

「土砂崩れの場所だ。駒峰集落は、この向こうだぞ。気を引き締めろ」

隊長が、押さえたつもりの低い声で指示する。背丈より高い岩が転がる河原を前に、どこから横断するかに戸惑った。隊長がいらだち、年若の隊員に命じて先頭に立たせる。

 体は大きいがまだ少年の容貌をした隊員は、闇雲に足を踏み出し、時々泥に手と膝を突いて、必死に進む。男たちは何の工夫もなく一列になり、蛇行して岩のあいだを続く。

 全員が、土石流の痕に踏み込んだ。最後尾の男の靴も泥に浸かる。その背後に、もうひとつの人影が浮かび上がる。それは、音もなく巨岩に飛び上がり、ひらひらと手を振った。

 カラリ、と石の転がる乾いた音が、濡れた靴音に混じって奇妙に甲高く響いた。

 ズズ…、と岩が重々しく身じろぎする。

 ガラガラッ、と石と石がぶつかりあう響きが、そこかしこに湧き起こった。

 男たちは一斉に足を止め、唾を飲み込んだ。隊長が脂汗を浮かべて叫ぶ。

「馬鹿な、雨も上がってしばらく経つ。こんな平らな場所で土砂崩れなど…」

その声は、巻き起こった土石流の轟音にあっけなく呑み込まれた。大音響の中で、岩に砕かれ、潰されていく男たちの悲鳴が、か細くちぎれていく。

 突然の土石流は、ほぼ三十秒続いて止まった。しかし絶叫はやまない。脚や腕を岩に挟まれて助けを求める声、半身泥に埋まって恐怖に喚く声、泥の中から手だけを突き出してうめく声。

 運良く無傷だった隊長は、岩に這い上がり、ライトをかざして、部下たちを照らそうとする。

「誰がやられた?各自状況を言え!」

「佐藤は大丈夫です」「芳賀、無事」「田中です。なんとか」「菊池、脚を挟まれました」

「久保や、動けへん、誰か…」「うがああああ」

「わめくな戸田!隊長、早くこっちへ来てください!」

「それだけか?他の者はどうした!土方副長は?沖田突撃班長は?」

「痛いよう…」

呻きと絶叫だけが続く中、突然、河原の対岸から、若い女の声が闇に響きわたる。

「ワタル、こいつら、全部で何人?」

男たちの背後から、嬉しそうな若い男の声が答える。

「十七人居たよ、ワクラ」

「残ったのは?」

「動いてるのは十人」

隊長は肩から下げたキャリコサブマシンガンを掴み、セレクターをフルオートにして、引き金に指を掛ける。

「そこにいるのは誰か?答えなければ撃つ!」

けたたましい笑い声が、複数湧いて、同時に隊長の立っていた岩が揺れる。ひとたまりもなく隊長は転げ落ち、同時にキャリコが火を噴いて、九ミリルガー弾は発砲した本人の膝を撃ち抜いた。

 その銃声をきっかけに、数人が射撃を始める。若い女の声が聞こえた方角へ、若い男が居る背後の闇へ、そしてただ恐怖に駆られて無茶苦茶に回りへ。銃口から連続して噴きあがる閃光が花火のように美しい。しかしほとんどの者は銃を制御できず、弾丸はいたずらに泥にめり込み、岩を割り、虚空に消え、そして味方の身体に食い込んだ。それでも撃つのをやめることができない。

 各自五十発の弾丸は瞬く間に撃ち尽くされ、火薬の酸っぱい匂いが立ちこめる闇に、男たちは空っぽになった銃を握りしめて立ちすくむ。

 負傷者の悲鳴と呻きの向こうから、再び笑い声が噴きあがった。

 

    23

 さらに、笑い声に混じって、野獣の唸り声のようなものが地面を揺るがす。不意に、闇の中に一対の青く燐光を放つ眼が浮かび上がる。それは次第に位置を高くし、男たちの身長を超え、見上げるような高さまで持ち上がる。夜空に、巨大な獣の頭部と盛り上がった肩が輪郭を現す。

「く…熊か?」

男たちの一人が、わななく唇で言った瞬間、小山のような巨体が、大地を揺るがせて突進した。猛獣の咆哮が轟き、湾曲した爪が一人の男の肩に食い込み、長大な牙がのどを裂いた。骨が噛み砕かれる音が続いた。ほとんどちぎれ掛かった頭部が、男の肩の上からがくりとのけぞる。野獣の牙はさらに鎖骨と肋骨を砕きながら、男の内臓をえぐりだし、くわえて、呑み込んだ。

 瞬時に死体となってしまった男を投げ捨てると、野獣は次の獲物を捉えに走る。もはや餌となる運命しかないと悟った男たちの絶叫が、夜空に響いた。

 暴発した銃弾で砕けてしまった膝を抱えたまま、隊長はただ目を見開いている。生き残った部下が、全て喰らい尽くされていくのを、なすすべもなく見続けた。

 凄まじい血と臓物の匂いにまみれた野獣が、ゆっくりと隊長の前にやってくる。雲が切れ、星明かりが徐々に野獣の身体を照らす。隊長がかつて見た、どんな獣とも似ていない。最大の羆よりも巨躯でありながら、胴体は引き締まり、頭部は狼のようだが、一対の野牛のような角が突き出ている。

 その巨体が、急速に揺らいで変形する。まばゆい緑色の光が野獣の身体を包んだかと思うと、長身の人体へと変異した。くっきりと筋肉の形が浮き上がる、奇蹟的に均整の取れた肉体。

 そして隊長の目にも、その緑の燐光を放つ男が、戦慄的な美貌であることはわかった。美しい青年は、エメラルドの瞳を燃やし、隊長に歩み寄る。

「おまえたちは、兵士ではない。ただのならず者の集まりだ。かつても、軍隊の回りにはそんな奴らが群がっては、人を傷つけていた。この国は、やはり変わってはいないのだな」

「助けてくれ…」

隊長は、涙とよだれを垂れ流しながら、しゃがれ声を振り絞る。異形の青年は、眉をしかめて、隊長の血塗れの膝に右手を触れる。痛みが急速に薄れた。

「答えろ。誰がおまえたちをここへよこした?」

青年の声に、隊長は頭を振り、うって変わった尊大な口調になる。

「自分は、憂国の士だ。祖国のために身をなげうつ覚悟で日々過ごしてきた。敵の質問に答えるつもりはない。それよりおまえはいったい何者だ…」

 青年は、隊長の顔をじっと見つめている。隊長は逆に質問を浴びせようとして、舌が痺れた。頭の中に、脳をかき回されるような痛みが走った。

「ふん…住吉財閥から、金と武器を貰ったか。相変わらず奴らは、火薬と弾丸を売り、死者の血で肥え太っているのか…私よりも、吸血鬼と言われるにふさわしい」

青年の声に、隊長は愕然とする。

「心を…読みとったのか?…吸血鬼、だと?」

「悲しいことに私は、血を飲まなければ活動できない。それでも、命を奪うまで飲むことは本意ではない。だが、卑劣なおまえたちには、何の配慮もいらない」

ゆっくりと伸ばされた青年の右手が、隊長の戦闘服を突き破り、真紅の塊を掴んで抜き出される。隊長は自分の心臓が青年に咀嚼されるのを見つめながら、長い絶叫を放った。

 

    24

 河原を見下ろす木立の闇で、雄太はわなないている。なにが起こったのか正確にはわからなかった。廃校を出ていったワクラたちを必死に尾行し、辿り着いたここで、土石流と銃火を目撃し、猛獣の咆哮と男たちの断末魔を聞いた。そして巨大な異形の姿が碧い光を放つ青年に変身するのを見た。

 そのことをワクラたちに知られたら、恐ろしい結果を招くと直感的に分かったが、雄太の身体は痺れて、しがみついた木の幹から離れない。その時、背後に小さな足音が近づいてきた。

「うふ、見たんでしょ。あるじ様のかっこいい姿」

ナナセが、蝋燭を手にして、ふわふわと歩いてくる。そして立ちすくむ雄太の顔、すれすれに自分の顔を寄せた。

「でも大丈夫。告げ口したりしないよ。雄太っていうんだよね。ちょっとあたし好み。それに、超能力持っている女を恋人にしているんだ。それなら…」

少女の甘い体臭が、雄太の鼻に強く匂った。

「ねえ…えりかより、あたしの方が若いし、ずっと可愛いと思うんだけど」

間近に点る蝋燭の光が、ナナセの整った顔を照らし出す。無邪気な笑顔の中で、その瞳は悪魔のように雄太を誘惑していた。

 

 ひどく寝汗を掻いていることに一美は気づく。かび臭い毛布を掛けられて、固い床に横わっていた。とてつもなく身体がだるい。目を開くと、灯心を絞ったランプが、職員室らしい雰囲気の部屋を照らしている。

 一美の横には、同じように毛布を被って寝ている者が居た。その傍らに、細長い棒が立っていて、液体の入った透明な袋がぶら下がり、チューブが伸びて、毛布の中に入っている。点滴だ、と一美は思った。

 そしてようやく一美は、横に寝ている人間が、大きく目を見開いて自分を見つめていることを知る。一美は息を飲み、体を起こした。

「かれん…かれんなんやね!」

毛布から目だけを出しているかれんは、瞬きも身じろぎもしない。彼女の瞳に、憎悪と嫉妬の色が浮かんでいる。一美は戸惑いながら、かれんの肩に触れようとする。その瞬間、かれんは起きあがって激しく一美の手を振り払った。

「どうして、どうして一美はいつも、あたしの邪魔をするの!」

一美は凍り付く。かれんの首に、包帯が巻かれて、微かに血が滲んでいる。そして、一美の首も同じだ。

 

    25

 かれんは、袖のない浴衣のような衣服を着ていた。剥き出しの腕に、チューブが繋がり、絆創膏で止められている。それを引きちぎらんばかりに振り回し、醜く顔を歪めて罵倒する。

「あなたはいつもそう!あたしがまぁの一番の親友だったのに、転校してきたあなたがとっちゃった!今度は嫌よ、あたしが、あたしだけがあの人に血をあげるんだ!あたしだけがあの人の花嫁なのよ!あなたなんか、あなたなんか!」

 一美は息を詰めて、激昂するかれんを見つめた。こんな彼女を観たことがなかった。かすれ声でやっとかれんに問いかける。

「うち…かれんが助けを求める声を聞いた…だからバスを飛び出して、ここまで来たんよ。かれん、あいつに、緑の目をしたあいつに、血を吸われたんやろ。そんなに弱るまで」

「あいつなんて呼ばないで!」

一美に殴りかかろうとしたかれんの顔が、急に蒼白になり、視線が泳ぐ。上体が揺れ、点滴のスタンドを引き倒して、床に転がる。

 その騒音と同時に、ドアが荒々しく開き、頑丈な中ヒールの靴音が踏み込んできた。一美の目に、医者のような白衣を着た中年の女性が映った。引き詰めて結い上げた髪に、顎の張った逞しい顔。がっちりした体躯の女は、不機嫌な表情でかれんを抱えて仰向けに寝かせ、倒れた点滴スタンドを直す。手慣れた様子だった。

「何を興奮してるんだよ。大人しくしていればいい。もうあるじ様はおまえたちの血は必要でなくなったんだ」

女の太い声に、かれんが弱々しく目を開け、すがりつく。

「駄目…あの人をここへ呼んで。あたし、もっともっと、血をあげるの…」

 一美は、自分ののどの包帯に触りながら、慄然としてかれんを見つめている。あの異形の青年が首筋に触れたときの感触が蘇っている。最初に感じた痛みを、やがて快感が圧倒した。めくるめくほどの壮絶な感覚だった。

(かれんは…血を吸われたときの快感に、中毒になっているんだ!)

 一美は、胸の中が熱くなった。やりきれなさと怒りがこみ上げて、毛布をはねのけて立ち上がる。

「こら!そっちのおまえ、何をしてるんだ。寝ていろ」

白衣の女が獰猛な犬のような表情で怒鳴る。立ち上がると、背丈は一美と同じくらいで、肩幅と胸の厚さは遥かに女の方が上回る。強い腕力で腕を掴まれ、一美は歯を食いしばった。

「小娘が、私に逆らうとどうなるか教えてあげるよ」

白衣の女が一美の腕をねじりあげようとする。その時、一美の目は異様な輝きを帯びた。次の瞬間、白衣の女は宙に回転し、もんどり打って部屋の隅に叩き付けられる。うめき声と共に身を起こした女は、顎を大きく開き、喘いだ。

「なに?なんなの、この小娘は…まさか、サイコキネシスを持ってるの?」

「あいつの居場所はどこや!?」

一美の蒼白な顔に、吊り上がった目が凄絶な怒りに燃えている。

 

       26

 歩くと眩暈と吐き気に襲われた。それでも一美は突き進む。石棺のあった倉庫のドアを力任せに開ける。何も気配はない。舌打ちをして廊下を進む。背後で白衣の女が喚いている。

「ナナセ!どこにいるんだ。こいつただ者じゃない、正体を読まないと!」

 体育館には外から錠前が掛かっていた。一美は歯ぎしりして拳で殴りつける。頑丈な鋳鉄が、一撃で砕けた。轟音と共に扉が勝手に開く。ランプの灯りを囲んで、老人たちとえりかがすくんでいた。

「一美…首に血が滲んでるよ…」

えりかが立ち上がり、駆け寄ってくる。一美はよろめく足取りで、きびすを返し、校庭に向かう。

「だめ!さっきそっちから鉄砲の音がしてた、危ないよ!」

えりかが一美の肩を掴んで抱きしめる。だが一美の足は止まらない。生え放題の雑草が、一美の前で二つに割れてなびき、道を作る。

 校庭の端まで到達すると、一美は立ち止まった。そこは崖になり、渓谷から風が吹き昇ってくる。一美の横に並んで立ったえりかは、凄まじい血と硝煙の匂いに、鼻を殴られたようにのけぞり、顔を覆って尻餅をつく。

「来る…まずは魔多羅衆か」

呟く一美の姿から、闘志が燃え上がるのを、えりかはおののきながらはっきりと感じた。

 夜空に、風が鳴った。星を遮って、黒い雲がわき上がる。空気を裂く音がする。えりかは地面にへたりこんだまま、呆然と風の声を聞く。

「あの雲は…数え切れない岩と石が舞い上がって…落ちてくるよ!」

えりかは一美に向かって絶叫した。笛のような音と一緒に、無数の岩石が、ふたりの頭上に雪崩かかる。

 

       27

 雄太は、無理に笑いを作るがその顔は引きつっていた。

「ハハ…えりかより若いって、おまえ幾つだよ。まだ小学生…」

「学校なんて行ってないもん。ねえ、私と一緒に暮らそうよ。あるじ様に血を貰ってお母さんを生き返らせて貰ったら、三人で東京に行ってさあ…」

少女は雄太の手を握りしめてくる。ひんやりした細い手の感触と同時に、雄太の背筋にぞくっとする感覚が走る。ナナセの目はそれほど大きくないが、切れ上がった目尻と鋭い光を放つ瞳に、雄太は魅入られていく。

 だが、不意にナナセは舌打ちし、雄太の手を離した。

「もう!いいところなのにい!なんなのアオイお婆ちゃん…」

見る見るその頬が紅潮し、小さな唇を噛んでナナセは雄太に背を向ける。蝋燭の光がたちまち木の間に遠ざかる。

 

 夜空から轟音をあげて降り注いだ大小の岩石は、岩同士がぶつかり合って火花を散らしながら、校庭に穴をうがち、跳ね返り、散らばる。闇の中に、幾つもの声が走る。

「やったか!?」

「血の匂いがしない!よけられたぞ」「まさか、テレポーテーションか!」

「奴は何者だ!」「まさかナルカミ一族…」

「ばかな!ナナセの読心を誤魔化していたというのか」

他の声を圧倒して、威厳に満ちた女の声が轟く。

「キリト!まだ見つからないのか、奴が何処へ瞬間移動したか」

気弱そうな中年男の声がぶつぶつと呟く。

「痛い…母さんそんなに神経を引っ張らないでくれ。…あそこだ、いた!」

 河原の石の上に並ぶ魔多羅衆の中心は、黒い布で全身を覆った長身の青年。そしてその傍らに、もっとも異様な男女一組が居る。中年の男が若い女を背中に背負いながら、首を伸ばして大きく目を見張っているのだが、女の右の手首から先は男の首に「埋まって」いるのだ。女は若返ったアオイ。彼女を母さんと呼ぶ男、キリトは、どう観ても五十才近い。

 アオイは自由な左腕を振って、魔多羅衆に命令する。

「ナナセが来る。ヘライはナナセを背負って走れ。メラムとワタルは瞬間移動して奴を攻めろ」

巨漢ヘライが、重々しい足音を立てて走り出す。メラムと呼ばれた若い男は、ワタルとよく似ている。ふたりは顔を見合わせて笑い、メラムは腰から長さ三十センチくらいの刃物を抜いた。ワタルは死者から取り上げたキャリコサブマシンガンを持ち上げる。ふたりは同時に声を発する。

「奴は何処だ?」

「この先二百メートル。ブナの林の中だ」

アオイが、キリトの首につながった右手を微妙に動かしながら答える。アオイの目は細められ、何処も観ていない。キリトの瞬きもしない大きな目がひっきりなしに左右に動いている。

 メラムとワタルが瞬時に姿を消した。黒衣の青年が、アオイに尋ねる。

「なぜ、一美を殺さなければならない?」

アオイは恭しい口調で言う。

「王よ、あの娘はナルカミ一族に間違いありません。仇敵の血を、王に飲ませてしまうとは、なんたる不手際。お詫び申し上げます」

「仇敵…か。だが、わかっているだろう。一美は私に咬まれたことによって、私の力を僅かだが与えられている。おまえたちの手に負えるかどうか」

 

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 空間転移を初めて経験したショックで、えりかは失神している。その身体を抱えながら、一美はブナの幹を楯にして、闇の向こうを透かし見た。激しい高揚に身も心も奮い立っていた。

(うちは、まぁの事故死を防げず、かれんがさらわれるのにも、何にも出来へんかった。超能力なんてなんも役に立たへん思うて、力と記憶を封じて閉じこもった。でも今、えりかを救えた。そしてあの化けもんを、倒す!)

感覚が最大限に研ぎ澄まされ、五感以上のなにかが、一美に敵の肉薄を知らせる。

 前触れもなく、ブナの枝の上に、痩せた若い男が出現した。右手に構えた短い銃を一美に向け、無造作に引き金を引き絞る。狂的に目が輝き、削げた頬には笑いが浮かんでいる。

 連射音と共に吐き出された九ミリルガー弾が、一美とえりかに降り注いだ。銃口の火炎が、一美の身体に届くほどの近距離だった。だが銃弾は空しく地面にめり込む。再度の空間転移で、一美は幹の反対側に逃れ、えりかを地面に横たえると、まだ射撃を続けている男めがけて蛇のようにブナの木を登った。

 二〇数発ばらまいたところで、ワタルは舌打ちして引き金をゆるめる。そののどにしなやかな少女の腕が巻き付き、ワタルはのけぞって枝から落下した。地面に肩と頭を打ち付けてワタルは昏倒する。気を失っているのを確かめて、一美は魔多羅衆の居る河原を振り返った。

 一美の緑のジャージが、いきなり切り裂かれる。地面に這っていたメラムが、一美の脚に短刀を突き上げたのだ。鋭い痛みが走ったが、筋肉はやられていない。一美は数メートルジャンプして襲ってくる刃を避ける。しかしメラムはその動きを読み、落下点まで走って一美の背中に短刀を突き込んだ。

 

「えりかが一美の制服を洗って干してた。あれ、どこか見覚えがあると思ってたんだが、麻田かれんと言う娘のと、同じだったんだよ」

唇を曲げ、目を白く光らせながら三〇才くらいの男=ジグルが言う。ワクラが腕組みをしてナナセを振り向く。

「なぜ一美の正体が分からなかったんだ?」

「一美は、記憶そーしつだったんだよ。自分でも超能力使えることを忘れてたみたい。っていうか、そういう自分が嫌で、忘れたがってたんじゃないの?目の前にいないから、わかんないけどさ」

ナナセは爪を噛んでいる。ワクラはアオイに目を向ける。

「どうなの?ワタルが撃ったみたいだけど」

「しとめてはいない。銃の代わりに刃物の光が見える」

相変わらずアオイは、キリトの神経に右手をつないで息子の遠視能力を借りているようだ。ジグルがせせら笑うように呟く。

「メラムがやったようだぜ。一美がうめき声を上げた」

 

      29

 激しい闘争の気配が、えりかの神経を刺激し、閉じていた瞼を開けさせる。星明かりに浮かぶ二つの影が、荒い息を吐きながらもつれ合っていた。一美が細くうめきながら身体をよじり、その背中にくっつくようにして若い男が背中を丸めている。何かが一美の胸で光った。えりかは瞬きをする。見た物が信じられない。

(刃物の先端が、一美の胸から突きだしている!背中から突き抜けているんだ…)

「なぜ、なぜ動けるんだおまえ…」

若い男=メラムは短刀の柄を両手で握りしめ、左右に振り回されながら喚いた。その瞬間一美の身体がエビのようにはねて、短刀がメラムの手から離れる。振り向きざま、一美はメラムめがけて右手を突き出した。空気が鉄拳と化してメラムを痛打する。のけぞって吹っ飛んだメラムは、倒れているワタルの横に背中から落ちた。

「一美!大丈夫なの…」

震える声でえりかは叫びながら立ち上がった。一美は顔をしかめながら右手を背中に回し、短刀の柄を握って引っ張る。血にまみれた三十センチの刃が抜けて、地面に転がった。

 駆け寄ったえりかは一美の背中を見て絶句する。傷に比べてほんの僅かしか血が出てない。しかも既に出血は止まっているようだ。

「痛くないの?」

「痛いわ。痛くないはずあらへん…けど、おかしいな」

一美の顔には戸惑いの表情があった。その目は呆然と、倒したふたりの敵を眺めている。えりかもおそるおそるそっちを見やり、身体がこわばる。転がっていたメラムが、歯を食いしばって起きあがったのだ。その手には、ワタルが落とした銃が握られていた。

「ちいい…あるじ様に咬まれて、不死身の力を分けてもらいやがったか。でもからだ中ぐしゃぐしゃになるまでタマを撃ちこめば」

「やめて!」

えりかが絶叫した。その声と同時にメラムは引き金を引いた。

銃は火を噴かない。何度引き金を引いても、発砲しない。一美がのろのろと右手を挙げる。メラムは恐怖し、銃を投げ捨てて、姿を消した。

 

 テレポーテーションで戻ってきたメラムは、黒衣の青年の前でがっくりと膝をついた。

「あるじ様…あいつは、マキリで刺しても平気でした。マシンガンで撃とうとしたら、タマが出ませんでした。銃の故障とは思えません」

ワクラが歯ぎしりして、腕組みを解く。

「もう一度念動力で、天狗倒しのつぶてを撃とう。もっと接近して、ナナセにあいつの移動先を読ませれば、間違いなくヤれる」

ヘライが頷き、ナナセをひょいと肩に載せる。アオイもキリトを促して、立ち上がる。ジグルも舌なめずりをしながら足を踏み出した。だが、黒衣の青年は首を振った。

「待て、その前に私は、あの娘と話がしたくなった」

魔多羅衆の動きがぴたりと止まった。ナナセの目が妖しく光り、黒衣の青年の横顔を見つめる。

 

 

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