その4

 

 

 

 

 

 その4・少女魔神

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 顔色を変えたのは多恵だけで、あとの四人は身じろぎもしない。老人の一人が、皺に埋まった目を光らせて、呟いた。

「わしゃあたちは、逃げんに。ほかに行き場所はないんな。ご先祖様から受け継いだこの土地を守るんな。光全寺の墓も直さにゃあならんし」

「それは、後ですればいいよ。今は危ないんだ!」

えりかが声を上げると、四人とも首を横に振った。老婆が微笑して唇を動かす。

「今まで何回もこんなことはあったんだに。そもそもご先祖様だって、ここに初めからおった山人を殺して、その嫁さんを盗って、子供を産ませた落ち武者たちだっちゅうに。そのあとで落ちてきた武者や、旅の衆をだまして毒の酒を飲ませ、持っていた宝を盗ったこともあった。税金を盗りに来た役人を谷底へ落として知らん顔したこともあった。武田信玄の軍勢が押し寄せたときや、信長の代官がやってきたときは、へいこらしてやり過ごしたし、いいんな、今度もへいこらしとればなんとかなるんな」

 えりかは、愕然として老人たちを見る。多恵の夫の老人が、白い髭をひねる。

「若い衆は逃げりゃあいいに。よその土地の空気と水でも慣れることが出来るら。わしらにゃあ、もう無理な。山崩れで道が通れなんでも、だだくさもねえ雪に閉じこめられても、わしらは、ここで生きて来たんな。そうよ、魔多羅衆とも、何回かつき合いはあったんだに。気が病んだ者を祈祷で治してもらったりな。だから、心配はいらんのな」

 不意にえりかは悟る。近郷から嫁に来た多恵と違って、この四人は、非常に血縁が近い。さらに、人生のほとんどを共に暮らすうちに、擬似的なテレパシーを通い合わせる、超能力者にも似た存在になっているのだと。

 

 魔多羅衆は駒峰集落の背後の山上に結集していた。数百年前、駒峰の土豪が築いた山城の跡である。繁茂した樹木を念動力で薙ぎ払うと、視界が開け、三石川の川筋のほとんど全容が見渡せるようになった。

「山の端が白くなってきた。もうすぐ夜が明けるね」

ワクラがアオイに告げると、うなずいたアオイは、青年が着ていたものと同じ材質の黒衣を身体に巻き付け、付属のフードを目深に被る。そしてくぐもった声で魔多羅衆全員に命令する。

「あるじ様もじきにやってくる。敵は、空から襲ってくるそうだ。たぶん、東から朝日を背にして来る。今度は『念火』を使うよ。そして戦い終えたら、全員で走るからね」

 ワクラにキリト、ヘライ、ナナセ、ジグル、そしてメラムとワタルに加えて、がっちりした体つきの女と、メラムやワタルに似た若い男がいる。そのふたりを指さし、ワクラが念を押す。

「ユリエとコノマ、学校にいる奴らには、変わりはなかったね?」

ユリエと呼ばれた女は、忌々しそうに顔を歪める。

「爺と婆は、おとなしくしてたよ。けど、雄太とかいう若僧は、どっかへ姿くらましたきりだ」

雄太の名前に、ナナセの表情が僅かに動く。アオイの目がフードの下で光った。コノマという名の男が、付け加える。

「言われたとおりに、役場の男は連れてきたぜ」

コノマの足元に、縛り上げられた中年の男が、ぐったりと転がっていた。

 

 これほどに長距離のテレポーテーションを、一美はできると思ったことすらない。今まで彼女が行ったのは、数キロ単位の移動に過ぎない。かれんを探して、飯田市内から赤石山脈に向かって、十数回それを繰り返した。その結果、力を使い果たし、記憶さえも失ってしまったのだ。

 だが今行っているのは、彼女の想像を絶する移動だった。黒衣の青年=魔王の力が、彼女の背中を押している。視界は暗黒に閉ざされて、息もできない。全身を激痛が貫いている。それでも、まっしぐらに、あの場所へ向かっていることはわかった。

 

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 暗黒の中の責め苦は、果てしなく続くように思われたが、唐突に一美を失墜感が襲う。地の底までも墜ちて行くような重力変化…そしてそれが終わった瞬間、一美は激しく地面に背中から叩き付けられていた。

 肺の中の空気を、残らず吐き出し、少女は苦痛に全身を硬直させ、歯を食いしばる。耐えきれず、咳込みながら、身体を折り曲げてのたうつ。

 ようやく、目を開き、上体を起こした一美は、まだ周囲が闇に包まれていることを知った。湿った土と苔の匂いがした。凝らす目に、夜空を突き刺す尖塔と十字架が映る。

「カトリック聖アガタ教会…来たんや。何百キロもテレポーテーションしたんや」

痛む身体を引きずり、一美は立ち上がる。その眉間に焦りの皺が刻まれた。

「まぁのお墓は、どこなんや…明かりが欲しい…」

御影石を刻んだ十字架が、石の基壇に林立している中を、破れた緑のジャージ姿の少女は、幽鬼のようによろめきさまよう。

 不意に一美は、胸を押さえた。ジャージと下着の間に、転がる物体を感じた。無意識のうちに押し込んでいた、魔王の血塊。

 取り出した卵大の球体は、赤と緑の液体がどろどろと入り混じったカプセル。ゆっくりと内部の液が回転していたが、やがて赤が薄れ、緑色が鮮やかになり、ついに、美しい碧の燐光を放ちはじめた。その光りが、一つの墓碑に刻まれた文字を照らし出す。

 花宮雅子・享年十七歳

 一美は、わななく掌で、墓碑に触れ、碧の光りの中で泣きそうに顔を歪ませる。

「まぁ…見つけたよ。待っててや。すぐに、土の下から出してあげるさかい」

かざした一美の手の下で、十字架がゆっくりと倒れ、基壇の御影石がずず…とずれていく。固められた土が、沸騰するように動いて脇へ避けていく。見る間に寝棺の蓋が姿を現す。念動力だけではじれったくなった一美は、自らの手を汚して土をつかむ。そして、全ての土が払いのけられた。

 わずかに少女は躊躇した。途方に暮れ、視線をあげる。その目に、東の空の黎明が映った。

「あかん、夜が明ける。早くせえへんと!」

唇を噛みしめ、一美は両手を棺の蓋にかけた。腐食した木製の板がきしみ、砕ける。一美は目を閉じて、割れた蓋を投げ捨てた。

 どんな変わり果てた雅子の姿を見ても、動揺するまいと思っていた。しかし、震える瞼を開いたとき、視線の先にあったのは、ただ暗黒だけが満ちた棺だった。

「まぁ…?」

燐光を放つ魔王の碧血を手にして、棺の中を照らしだし、一美は茫然とする。

「どこ…?まぁ…どこへいったんや?!」

空っぽの棺を前に、一美は絶叫した。

 

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 タイヤを泥まみれにして、山道に停車しているデミオの車内で、アーサー・マケインはノートパソコンを膝に置き、キーボードを叩いている。後部座席を畳んで、山のように積まれたハードケースの一つが、強力なバッテリーで、パソコンはそれに繋がれている。

 液晶画面に表示されているのは、英文のチャットのようなものだ。

「エンジェル1より、ミカエルへ。攻撃準備完了。指示を待つ」

「ミカエルより、エンジェル1、エンジェル2へ。離陸せよ」

「エンジェル1了解」「エンジェル2了解」

「エクスカリバーより、ミカエルへ。主目標Nを除き、捕獲の必要なし」

「ミカエル了解」

 アーサーは溜息をつき、首を横に振る。その時サイドウインドーが軽く叩かれた。車の外には、がっちりした体躯のシルエットが立っている。アーサーがウインドーを下げると、男は苛立った英語を発した。

「アーサー、いつまで俺たちは待てば良いんだ?」

「今、N捕獲部隊が浜松を飛び立つ。すぐにやってくるぞ」

男は、頭の黒いキャップを被り直し、肩に担いでいた銃を両腕に抱える。自動式ショットガンである。アーサーはものうげに指示をした。

「主役は天使たちだよ。おまえたちは設置したクレイモアと銃で、目標がこっち側へ逃げてきたら殲滅すればいい」

「了解。だが…もう一度確認するが、そのマタラシュウというカルトのテロリストたちが、エスパーだとして、おれたちの武器は、役に立つのだろうな?」

 アーサーは顔を上げ、まじまじと男を見た。軽蔑しきった視線だった。

「銃で撃たれれば、ティラノサウルスだって死ぬ。テレキネシス(念動力)でぶつけてくる石より、銃弾の方が何百倍速い。おまえはESPなどなくても指でスプーンを曲げられるだろう?エスパーの力など、くだらないものだ。おまえたちはプロだ。マタラシュウは戦闘にはアマチュアだ」

 男は頷き、デミオから離れる。山道の後方に、数台のヴァンが停まっている場所へ歩いて行く。

 アーサーはパソコンの液晶画面に変化がないのを確かめると、呟く。

「N…ノスフェラトゥか。不死の吸血鬼、そんなものがこの世界に存在して良いはずがない。サンプルとして採取するのが『天使部隊』だが、無駄なことを。魔女も吸血鬼も悪魔と同義だ。ひたすら殲滅すればいいのだ」

 アーサーのノートパソコンが映し出しているのは、デジタル化した上で暗号に直した無線通信を解読したものである。

 

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 魔多羅衆の中心に、魔王がいる。緑に輝く瞳が、赤石山脈を見据えて、刻々と色を変えていく山と空の境目を指さす。夜空を陽光が駆逐して行く。ついに山の端に、まばゆい光球が顔を覗かせた。魔王とアオイは深くフードを被り、顔を陽光から守る。

 遠く、低く、空気を揺るがせて轟く音が、魔多羅衆の耳に届く。眩しさに耐えて太陽を見た者は、その中に黒点のようなものが大きくなって行くのを認めた。

「ヘリコプター、だ」

ジグルが呟く。アオイが鋭く叫んだ。

「力を集めるよ!先頭のヘリコプターに、集中する!」

黒点は見る間に、ローターを旋回させるヘリの姿をとった。二機が山脈を越え、低空飛行に移ろうとする。その瞬間、魔多羅衆の全員が、視線を凝らし、思念の矢を放った。

 太陽が二つになったように見えた。それは、ヘリの一機が巨大な炎の塊となったのだった。

 だが残った一機は、まっしぐらに駒峰集落目指して、原生林の樹冠すれすれを飛んで来る。魔王が低く、しかしきっぱりと命令する。

「念動力の幕を張る。私の回りに固まれ!」

素早く魔多羅衆が動いたとき、すでにヘリのローター音は頭上に迫っていた。胴体の細い、小型のヘリだが、左右に張り出した短い翼=スタブウイングに蓮根のようなロケット弾ランチャーを装着している。ヘリが機体を前傾させ、駒峰の城跡に照準を定め、高度450メートルからダイブを始めた。

 ロケットランチャーから一秒間に12発の2・75インチロケット弾が発射される。火と煙を噴いて飛翔するロケットの後を追って、機首の下にあるチン・ターレットのグレネードランチャーが5秒間吼えた。40発の40ミリグレネードがばらまかれる。息付く間もなく、グレネードランチャーの横から、7、62ミリミニガンが射撃を開始する。3秒間で200発。

 数秒間で、駒峰の城跡は、ロケット弾とグレネードの炸裂で土砂を噴き上げ、木々がちぎれ飛び、おびただしい銃弾にえぐられた。ほとんど地形は原形をとどめていない。

 

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 急降下から引き起こしに移り、戦闘ヘリは機体をねじるように進路を変え、駒峰の城跡の真上を避けて上昇する。そして反転すると、再び攻撃にかかった。同数のロケット弾、40ミリグレネード、7、62ミリ機銃弾が撃ち込まれて、魔多羅衆のいた場所は火炎と煙を噴きあげ、土砂と岩石が沸き返る。

 その間に、戦闘ヘリの来た方角からややずれて、別の形のヘリコプターが4機飛来していた。戦闘ヘリに比べると胴体が太く、一般的なスタイルだが、軍用機らしくカーキ色の塗装。2機ずつタイトな編隊を組み、黒煙を上げる駒峰の城跡をはさみこんで接近すると、低空でホバリングを始める。見る間に機体からロープが地面に向けて下がり、銃を携えた兵士が身を投げるようにしてロープを伝い、降下していく。一機から12人ずつが地上に降り立つまで10数秒しか掛からない。戦闘ヘリもホバリングしつつ、瓦解した城跡に火器の照準を当て続けているようだ。

 降下した48人の兵士は、ジャングル迷彩の戦闘服にヘルメットを装着して、銃身の短いアサルト・ライフルを手にしていた。顔面にも迷彩塗装をしていて、全く表情が読みとれない。

 双眼鏡で状況を見守っていたアーサーの横で、ショットガンの男が、やはり双眼鏡を覗きながら喚く。

「コブラが一機やられたぞ!ヘリボーンの奴らは、大丈夫か。M4カービンだけでモンスターに歯が立つのか?」

アーサーは、舌打ちして、喚く男を見向きもしない。

「任せて置くしかないだろう。しかし、やっぱりロケット弾というのは命中率が悪いな。流れ弾で校舎が燃え始めた。煙が敵に味方しないといいのだが」

 駒峰の廃校の校舎からあがる黒煙が、城跡に向かって立ち上り、まるで煙幕を張るような形になっている。兵士たちはその煙に向かって銃を構えて進撃していた。

 冷徹な表情を崩してはいないが、実はアーサーは激しく動揺している。戦闘ヘリAH-1ヒューイコブラ・特殊戦用機がまさか撃墜されるとは思っていなかったのだ。

 

 おびただしい煙が侵入して、体育館は視界もなくなっている。激しく咳き込みながら、えりかは老人たちを励まして叫び続ける。

「タオルを口に当てて!出口はあっちだよ!」

力強く声を出しながら、えりかは心の中で悲鳴を上げていた。

(雄太、どこにいるの?来て!あたし一人じゃ…だめだ!)

 

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 地面の中で、魔王は呟く。

(私を、私だけを捕らえるために、彼らはこの膨大な弾薬を使ったのか。私の他は、皆殺しにしてもいいと…)

 ほじくり返された土砂に埋もれ、さながら繭に籠もる蛹のように、魔多羅衆は身体を丸めている。不可視のバリアが彼らを守っている。

 ナナセだけが、地面の上に横たわっている。彼女は攻撃を受けた瞬間に、雄太をかばおうとした。読心力のほかに何の能力も持たないのに、雄太のもとへ走ろうとした。ロケット弾の爆風と弾片を浴びて、少女の命は瞬時に失われた。そして雄太はその20メートル先で、機銃弾に胴体を射抜かれて、絶命している。

 魔王はじりじりと地中を移動し、ナナセの傍らに出現する。天を仰いで怒りの吼え声をあげると、手首を牙で噛み、碧血を血塗れの少女の身体に降り注ぐ。さらに雄太にも。

 戦闘ヘリの赤外線感知装置とアンモニア検出センサーが、煙を透過して魔王の動きを察知した。ミニガンが回転し、3秒で180発の弾丸を撃ち出す。銃弾の嵐としかいいようのない攻撃に、魔王の背中から血しぶきが噴きあがる。しかし彼は倒れない。黒衣のフードの下で、緑の目が凄絶に燃えて、鋭く振った右手から、ハンドボール大の石が放たれた。念動力で加速された岩塊は、音速を超えて、200メートル離れてホバリングしている特殊戦用ヘリ・コブラのキャノピーを直撃した。

 コントロールを失い、コブラは空中でよろめき、斜めに落下しはじめた。ローターが斜面の樹木をなぎ倒して、胴体が岩に激突し、燃料とロケット弾に引火して爆炎が巨大なダリアの花のように開く。

 ホバリングしていた4機の中型ヘリが、恐慌して退却を始める。見る間に機影は小さくなる。そのヘリから降下した兵士たちは、それでも動揺を見せない。2名一組で一人が前方に銃を向け、もうひとりは周辺警戒に目を配らせながら、着実に攻囲の輪を縮めていく。

(魔多羅衆よ。私は力を解放する。だが陽光の下だ。おそらくその後、私は動けなくなる。私とナナセと、あの雄太という男を背負い、走れ。)

(わかりました。王よ、お力を敵に存分に見せつけて下さりませ)

魔王の念話にアオイが応えた。

 輝いていた朝日が、雲に覆われていく。まるで夕立が襲来してくるような、黒く分厚い雨雲が、急速に谷間の空を覆い始めた。直射日光が遮られたとき、魔王はフードをはねのけ、高く吼え声を炸裂させた。

 周囲の山々から、万雷のように咆哮が返ってきた。紛れもない、それは狼たちの宣戦布告の合図だ。ヘリボーンの兵士たちが凍り付き、その一人が汗まみれの顔で叫ぶ。

「馬鹿な…日本に狼はいない。明治時代に絶滅したはず…」

原生林を駆け抜けてくる、黒い津波のような狼の群を、兵士たちは見た。周辺警戒も2名一組のバーディシステムも忘れ、全員が狼たちに向かって銃を向ける。

 その無防備な背中めがけて、魔王の強大な爪が一閃した。

 

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(呼ばれている…)

浅い眠りを破るその直感に、沢渡礼子はベッドの上に起きあがり、カーテンを開けた。

 濁った血のような朝焼けが東の空に滲んでいる。雲が広がってきていた。黒く厚い雨雲だ。見る間に朝焼けを覆い隠し、細かい雨粒が窓ガラスを叩く。

 礼子は素早く制服を着て、ダイニングで牛乳を飲み、カロリーメイトを口にすると、音を立てずに玄関を出た。通学鞄の代わりにデイパックを背負い、傘を開く。傘にあたってもほとんど音を立てないほどの霧雨だ。

 バスで30分揺られている間中、礼子は、なぜ(呼ばれている)と感じたのか考え続けた。今まで、霊感とかESPとかを自分が持っていると感じたことはない。興味もほとんどなかった。一美やまぁを巡る緊迫した事態の中で、自分の精神状態も均衡を保てなくなっているのだろうか…礼子は唇を噛みしめ、高い尖塔の聳える教会の前で革靴の紐を結び直す。カトリック聖アガタ教会は、海の見える小高い丘にあった。

 雨雲の下で、教会の建物は重苦しく、魔物の住処のように見えてしまう。門の鉄柵に触れると、甲高いきしみを発して開いた。(魂の救いを求めて駆け込む者のために、24時間、教会の扉は開かれている…)そんな事をつい先日学校で習った記憶がある。

 ためらいつつ、墓地へと礼子は歩みを進めた。すぐに、十字架の立ち並ぶ空間が視野に入ってきた。墓地の入り口で立ち止まり、時計を見る。午前7時13分。津村沙世子と約束した時間には、まだ2時間近くある。だが…

 礼子ははっと頭を上げた。傘を差し上げて、背後を振り返り、視線を凝らす。

 一人の長身の少女が、教会の敷地に足を踏み入れて、礼子に気づき、立ち止まった。少女は傘を持っていない。肩から膝下まで垂れる黒いマントのようなもので全身を覆い、頭には黒いフードを被っている。その姿は、陰鬱な雲の下、なぜかとてつもなくまがまがしいものを礼子に感じさせた。しかし同時に礼子は直感していた。

「津村…沙世子…さん?」

その微かな呟きに反応するように、少女は眼差しをまっすぐ礼子に向けて歩んでくる。マントを通しても、均整の取れた体つきであることがわかる。しなやかな身のこなしはファッションモデルにも一流アスリートにも似ていた。そして少女は、礼子の目の前でフードを取った。長い黒髪が、白い頬に流れる。整ったかたちの唇が微笑む。

「呼ばれたような気がして、こんなに早くに来たの。あなたもそうでしょ?沢渡さん」

 礼子の背筋に戦慄が走った。圧倒するような沙世子の美貌が、ますます「まがまがしい」感じを増幅させる。(逃げ出したい!)あろう事かそんな恐怖にかられている自分に、礼子は茫然としている。

「さあ、花宮さんのお墓へ行きましょ。これ、用意してきたわ」

マントの下から、カサブランカの花束が現れた。大輪の純白の百合は、霧雨に濡れて妖しく輝く。それを松明のように掲げて、沙世子は十字架の林の中へと進む。沙世子も高校の制服を着ているらしい。マントのように見えるのは、レインコートなのだろう。(イタリア系のミッションスクールの制服が、こんなデザインだった…)礼子は沙世子の後について歩きながら、ぼんやりとニューヨークの記憶を思い出したが、身体は凶事の予感に痺れている。

 

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 フードを背中に跳ね上げて、剥き出しになった沙世子の髪に、霧雨が降りかかっている。微細な水滴が、髪を伝わり、沙世子の唇を揺らした。その真紅の唇が、大きく開いた。ささやき声が礼子の耳に届く。

「沢渡さん…花宮さんのお墓の十字架が…倒れている」

愕然と礼子が沙世子の顔を見つめたとき、既に沙世子は走り出していた。湿った土と苔を踏む足に、まるで力が入らないのを感じつつ、礼子は後を追う。

 沙世子は大きく足を踏ん張って、墓地の中央に立ちはだかっていた。黒いマントが裾を開いて、巨大な鳥のように不吉な姿だった。白い指が地面を指さす。礼子は唾を飲み込もうとするが、口の中がからからに干上がっている。

 長方形に掘り返された地面の底に、空洞の棺。割れた蓋が投げ出され、石の十字架は仰向けに倒れて棺を覆っていた土に埋もれかけている。

「これ、これが、まぁのお墓!?」

「間違いないわ。誰が、どうして花宮さんの遺体を…」

「遺体を…盗んでいったって言うの!」

礼子は傘を投げ出し、頭を抱えてうずくまる。ほじくり返された柔らかな土には、たくさんの足跡と手形がついている。沙世子が横にしゃがんで、熱心にその足跡や、棺の中に視線を当てていた。

「墓荒らしは…女、みたいね。この足跡は、沢渡さんの革靴にそっくり。それに…香水でも付けていたのかしら…薔薇の香りがする」

 沙世子は立ち上がり、猟犬のような鋭い視線を放った。雨で柔らかくなった地面に、まぁの墓から続く、革靴の足跡を発見したようだ。礼子の腕を掴み、力強く引っ張って立たせる。

「ねえ…足跡、あそこの大きな木に向かっているわね。追ってみましょうよ」

礼子の手を握った沙世子の掌は、氷のように冷たい。黒いマントの美少女に引きずられ、礼子はなにも考えることが出来ないまま、足を運ぶ。しかし大木に近づいたとき、鼻腔に流れ込んだ薔薇の香りに、礼子は総毛だった。記憶の底で、その匂いは、ある人物と分かち難く結びついていた。

「か、一美?!あそこにいるのは、一美!!」

絶叫して、礼子は走り出した。大木は桜だ。その新緑も黒ずんで見える灰色の空の下、沈黙する巨人のような木の幹に、緑色のジャージの上下を着た少女が、背中を付けて立っている。だらりと垂らした両手は泥にまみれ、ジャージも汚れきっている。死者のように青ざめた顔が、ぐらりと揺れて礼子を見た。

 洞窟のように暗い瞳の中に、狂気の炎が燃えている。憔悴しきった少女の顔は、礼子の足を地面に釘付けにした。

「…一美、いったいどうして、こんなところに…」

かすれる礼子の声に、鳴滝一美のうめき声がかぶさる。

「まぁが、いいひん。まぁを生き返らせる血を、持ってきたいうのに…」

 

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「まぁを…生き返らせる?なにを言ってんの、一美。まぁのお墓を掘ったのは、あんたなの?」

礼子は、震える自分の身体を抱きしめながら、一美に叫ぶ。幽鬼のような一美は、乱れた髪を頬に貼り付かせて、うわごとのように呟く。

「うちが…掘った。でも、空っぽ。まぁのお棺、骨もなにも入ってへんの。なんで、なんでやの」

 目を閉じて激しく首を横に振り、礼子は自分を取り戻そうとする。勇気を奮って一美に近づき、その肩を抱いた。一美の身体はひどく熱い。

「一美、しっかりしなよ!」

「離して!うちは、まぁを、探さなあかんのや!」

一美の目はまるで焦点が合っていない。高熱に浮かされているらしいと気づいた礼子は、しかし次の瞬間、猛烈な力ではねとばされた。

 地面に叩き付けられて転がった礼子の目に、一美にゆっくり近寄っていく黒いマントが映る。雨の中を、ふらふらと歩き始めた一美の背中に、冷然とした言葉が浴びせられた。

「鳴滝一美、そのざまはなに?そんな情けない姿、私にさらして口惜しくないの?」

 一美が反射的に振り返った。呆けたような表情で、黒いマントの少女を見返す。さらに言葉が一美を追撃する。

「リベンジしたるって、大見得切ってたのは、法螺だったのね。この弱虫」

「津村…神戸の、光陽学院の、津村がどうして!」

一美の顔が驚愕に歪み、取り憑かれたような瞳の色が薄れる。

「今、沢渡さんに、力を使ったでしょう。それほど見境をなくしてるなんてね。見損なったわ」

 津村沙世子は冷笑を一美の顔に吹き付ける。

(力?それはいったい…)礼子は地面に這ったまま、不吉な黒衣と幽鬼のような緑衣のふたりを見比べた。

(似ている、なんだか、怖いくらいに)

 一美はよろめいて足を踏ん張った。蒼白だった顔面が、徐々に紅潮していく。怒りと嫉妬のような表情が燃え立っていく。

「まぁが言ってた、サヨコって…あんたのことだったんか!まぁの心に、ずっと刺さり続けていた棘みたいなもんが、あんたやったなんて」

「因縁、かもね。あなたのことは、忘れたかったけど、どうやら、花宮のこととも併せて、決着を付けるしかないみたいね。それにしても、死者を蘇らせるなんて…」

沙世子は、手にしたカサブランカの花束を、一美の顔に突きつける。

「魔に心を喰われかけているわよ、鳴滝」

 

 

      53

「魔…」

大きな白百合の花弁が、剣先でもあるかのように、一美はたじろぐ。しかし歯を剥きだして反駁する。

「サヨコのあんたこそ、魔やないの。うちの邪魔をするんやったら、容赦せえへん!」

震える右手を差し上げ、一美は沙世子の顔を狙う。礼子は一美の掌が、陽炎のようにぼやけるのを見た。

「馬鹿!もうなにを言っても無駄なのね!」

激しい口調で沙世子が叫び、カサブランカの花束を、一美に向かって叩き付ける。白い花弁が空中で四散し、燃え上がった。黒こげの花弁が地面に落ちる前に、一美の姿は消え去った。

 礼子は、ぼんやりと舞い落ちるカサブランカの灰を見ていたが、慄然として立ち上がる。一美のいなくなった桜の木の根元には、薔薇の香りがきつく立ちこめている。

 沙世子は、肩を上下させて息を荒くついていた。蒼白な頬に汗が流れている。礼子は沙世子に駆け寄り、その肩を掴んで揺さぶった。

「あたし、思い出したよ。一美も…まぁも、超能力者だった。一美は念動力で、パンク野郎や美緒と戦った。でもその力を使いすぎると、薔薇の匂いを発して脳が壊れる。まぁは、うちの学校の礼拝堂で、美緒を燃やして、遠藤先生を地下に引きずり込んで、あたしやかれんの脳を、一美に食べさせようとした!」

 沙世子は、目を細めて礼子のわめき声をじっと浴びていたが、頷いてささやく。

「沢渡さん、私も、鳴滝が超能力者だって知っていた。でも中学時代の彼女は、どんなにバスケの試合で負けそうになっても、けっして超能力を使おうとはしなかった。普通の体力と運動神経だけで、公正に戦っていたわ。なのにもう、鳴滝は血迷っている…。そしてそうさせてしまったのは…花宮」

「まぁが?死んでしまったまぁに、そんな力が」

 礼子は、まじまじと沙世子の沈痛な顔に見入る。不吉な黒い使者に見えた少女は、今、悲しみに翼を折られた天使のようだ。

「鳴滝は、花宮を愛しているのよ。今も」

礼子は、百千の雷が脳の中で鳴っているような気がした。愛している…その言葉が唐突に有る人物と結びついた。

「津村さん…まぁは、まぁの遺体は…あそこにあるのかもしれない。一美も、そこへ行ったのかも…」

 

      54

 沙世子は礼子の震える肩を抱きしめ、力強い足取りで雨の中を行く。礼子には、黒いマントの少女は、自分を守ってくれる天使のようにも、地獄巡りに引き込む悪魔のようにも思えた。

「…夕べまぁの家に電話して、津村さんの電話番号を聞いた。その時電話に出たのは、北海道の大学に行っているはずの、まぁのお兄さんだったよ。まぁを亡くしたショックが大きいご両親を慰めるために、休学して家にいるって言ってた…」

「まぁのお墓のことを、伝えに行きましょう。きっと何か、まぁのご家族は知っていると思う。特にお兄さんが」

冷静に沙世子は言うが、礼子はかぶりを振って、怯えた目で沈黙する。不吉で忌まわしい予感が、さっきよりも膨れ上がっていた。教会を出たところで、沙世子が手を挙げてタクシーを止めた。

 建て売り住宅が並ぶ、日本のどこにでもある風景。まぁ=花宮雅子の家は、築十数年が過ぎたありふれた二階屋の一戸建てである。しかし玄関を見て、礼子は息を飲んだ。次第に大きくなった雨粒が、開ききったドアの中に降り込んでいる。中から激しい物音と叫び声がした。

「しまった!やっぱり鳴滝もここに来ている!」

唇を噛んで沙世子が先に立って踏み込んだ。黒いマントがひるがえり、しなやかな身体を前傾させて、狭い玄関から靴のまま上がり込む。礼子は目を見張った。あがってすぐに二階に続く階段があり、その横の廊下に、ふたりの人影がうずくまっていた。

「まぁのお母さんと、お父さん!」

異装の沙世子にひきつった表情を向けていた中年の男女が、礼子に視線を移す。女性の方が堰を切ったように叫ぶ。

「その制服は…雅子のお友達?大変なの、鳴滝って女の子がいきなり入ってきて、雅子をどこに隠したかって、公輝につかみかかって…」

「鳴滝は今、どこです!」

沙世子が落ち着いた声で問いかける。雅子の父が、白髪を振って弱々しく応える。

「二階の雅子の部屋に…」

黒いマントが翼でもあるかのように、沙世子は階段を一気に駆け上がる。こわばる足を無理矢理動かし、礼子も続く。その背中に、雅子の母の叫びが刺さる。

「公輝を助けて!あの子は、純粋すぎて、雅子が死んだことを、受け入れられなかったのよ!」

 ノブに、布で作ったセーラー服の女の子の人形が下がったドアが開け放たれている。異様な匂いが礼子の鼻を突いた。若い男の怒声と、乱闘の物音が響く。

 

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 部屋の中に踏み込んだ沙世子が凍り付いた。棒立ちになっているその横に、夢中で礼子も足を進める。部屋に立ちこめている化学薬品の刺すような匂いの中、礼子の眼は、それ以上不可能なほど大きく見開かれたまま、視線が凝固する。

 緑のカーペットが敷かれた六畳の洋室の中央に、細長い箱形の物体があった。分厚いゴム引きの布で覆われていたらしいが、今はほとんど払いのけられている。それは継ぎ目のない透明なガラスで出来た水槽…いや棺と言うべきものだった!

 青みがかった液体はほぼ透明で、中に沈んでいる少女の姿が、くっきりと見ることが出来た。

「まぁ…そんな、ばかな!」

礼子は、絶叫しそうになる口元を押さえ、歯を食いしばる。沙世子が強く肩を抱きしめる。

 花宮雅子は、瞼を閉じ、うっすらと唇を開き、生前のままの顔立ちで、水槽棺の中にいた。何一つ身にまとっていないほっそりした身体は、水中に住む妖精か人魚のように現実感のない美しさで礼子の目に映った。

「花宮のお兄さん、あなたがこんなことを…」

沙世子が苦渋の声を振り絞る。

 壁際で、一美を羽交い締めにし、ばざばさに乱れた髪の毛の間から両眼を光らせている花宮公輝は、荒い息を吐きながら、血の滲む唇で笑った。

「雅子は死んでなんかいない。なのにあんな土の中に埋めてしまって、どうするんだ。目が覚めても誰も助けてやれないじゃないか。気が狂って本当に死んでしまうぞ。だから僕がここでずっと見守ってやるんだ」

 一美は、必死でもがくが、度重なるテレポーテーションでほとんど力を使い果たしているらしい。

「うちは…まぁを生き返らせてやれるんや!放して!ここに持ってる血を、まぁの心臓に注げばええんや」

弱々しい一美の叫びに、しかし、公輝の表情が激しく動揺する。

「生き返らす…だって?」

 沙世子が血を吐くような声で叫ぶ。

「お兄さんも、鳴滝も間違ってるわ!お兄さんだって本当は花宮が死んでいるってわかっている。だから、大学で研究していた知識で、花宮の遺体を保存溶液に漬けているんでしょう。鳴滝だってわかっているはずよ。逝ってしまった魂はこの世にはもどってなんかこない。たとえ肉体は蘇っても」

 だが沙世子の声は、二人に届かなかった。

 

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 一瞬の力のゆるみを見逃さず、一美は公輝の腕の中で身体を反らし、自分の後頭部で公輝の顔面を強打した。歯の折れる音がした。

 うずくまる公輝を見向きもせず、一美は水槽棺ににじりよると、刺激臭をたてる溶液にためらいもなく両手を突っ込んだ。

 ゆらり、と液体の中の裸体が揺らめいて、ボブカットの髪が逆立つ。一美は渾身の力を込めて両足を踏ん張った。

 ごぼり!と液体が波立ち、水面を割って、茶色がかった頭髪が飛び出す。蒼白な肌から薄青い液体が流れ落ち、十六歳で逝った少女の遺体が姿を現した。一美の両眼から涙が溢れて、青ざめた遺体の胸に滴を散らす。

「まぁ…うちの大切な、ともだち。戻ってくるんや。一緒に、一緒に生きて…」

一美は遺体を左手で水槽棺の縁に支え、右手でジャージの右腿のポケットを探り、碧緑色に輝く血塊を取り出した。

 その瞬間、礼子が悲鳴を上げた。一美の背後に駆け寄った公輝が、手にした何かで一美の頭を殴打したのだ。一美は声も立てずに床に転がり、手から離れた血塊が、カーペットに落ちる。支えを亡くした遺体の上半身が、水槽棺の縁からのけぞり、だらりと白い腕が垂れた。

 ごとり、と公輝の手から鉄製の一輪挿しが落ちた。そして公輝は代わりに卵のような大きさの血塊を拾い上げる。そして、ぐったりとのどをそらしている少女の遺体を抱いた。

「これを…心臓に、そそぐ?」

わななく手が、少女の左の乳房の上に近づき、握った指に、痙攣的に力が入る。

「やめて!」「だめだ!」

礼子と沙世子が叫び、沙世子はダッシュした。だが沙世子の足を、一美の手が掴んだ。

「血は、無駄にさせへん!やるんや、握りつぶして、まぁの心臓に、血を!」

顔面に鮮血を垂らしながら、一美は沙世子を床に引きずり倒し、公輝を促す。魅入られたように遺体の胸を凝視しながら、公輝は力を振り絞った。

 かりかり、と乾いた音が響くと、公輝の掌の中で、碧緑色の輝きが爆発的に強まった、光る液体が、剥き出しの少女の胸に、重い音を立てて滴り落ちる。そして、一滴余さず透明な肌を通過して吸い込まれていく。

 歓喜の表情で見つめる一美。一美の手をはずそうと歯を食いしばって格闘していた沙世子は、絶望の表情で振り返る。礼子は、ただ目を見開いて見つめるしかない。

 

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 碧緑の液体が、少女の胸に浸み通っていったが、その身体には何の変化も生まれない。青白い肌は冷たく、乳房は息づくこともない。公輝は狼狽して、妹の遺体を抱き上げ、傍らのベッドの上に横たえた。ぐったりと横たわった裸体は、重く沈み込んで、ぴくりとも動かなかった。

「どういうことだ…なにも、なにも起きやしないじゃないか!」

振り返った公輝の顔は、般若のように目を吊り上げ、歯の折れた口から血の泡を吹いて、礼子にはまともに見ていられなかった。

「なにも起きるはずがないよ、もう…やめようよこんなこと」

礼子が、涙声でそう呟いたとき、茫然としていた一美の顔がひきつる。

「まぁの、肌の色!」

 ベッドに横たわる裸体の全身が、内部から黒ずみ始めていた。見る間に全身、墨を塗ったように漆黒に変わる。同時に激烈な悪臭が、遺体から漂い始めた。腐敗臭と化学薬品=遺体の浸かっていた保存溶液の臭いを混ぜたような臭気である。

 そして、閉じた瞼、鼻腔、口、耳、さらに全身の毛穴から、どす黒い液体が流れ出て、ベッドのシーツを瞬く間に染めていく。赤茶けた頭髪が抜け落ち、その毛穴からも液体はおびただしく流れる。

 言葉にならない悲鳴を上げ、公輝が床に尻餅をついた。だが、遺体の変化は止まらない。ベッドから溢れるまでに流出したどす黒い液は、強烈な臭気を発しながら、次第に透明になっていく。同時に、遺体の肌もまるでガラスのように透明になり、血管に碧緑色の血が走っていく。

 今や、花宮雅子のからだは碧玉で刻んだ彫像のように、輝いていた。その緑色は、しかし一刻も変化をやめず、少女の皮膚に、薔薇色の波が走る。

「ああ…綺麗だ!」

一美の口から嘆声が漏れ、公輝の顔に歓喜の表情が湧く。薔薇色に輝く少女の裸体の頭部に、黒髪がゆっくりと伸び、元のボブカットの長さまで復活した。

 ぴく、とシーツの上に投げ出された腕が、痙攣した。天井を指している乳房が揺れ、胸郭が膨らみ、横たわる少女は深々と息を吸い込む。

「雅子!」

 駆け寄った公輝の目の前で、少女の瞼がぴくぴくと動き、長いまつげがさざ波を起こした。

「…おにいちゃん…ありがとう」

かすれてはいるが、誰もが聞き覚えのある、その甘く可愛らしい声が、異様な臭気に満ちた部屋を揺さぶった。

「雅子、お帰り」

感動に潤む声で、公輝は妹の枕元にひざまずく。公輝の切れた唇から血が垂れて、雅子の顔に散った。

「あ…ごめん」

公輝は狼狽して、シーツで拭おうとしたが、雅子の口からチロリと舌が出て、血を嘗めた。そして、雅子は微笑し、公輝の首に腕を伸ばした。

「おにいちゃん、あたし…のどが渇いてる…」

 

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 狂喜する兄は、妹の美しい裸体を抱きしめ、少女の頬に、無精髭の伸びた自分の頬をすり寄せる。そして、少し顔を離して、妹の瞳をのぞき込んだ兄の身体は、凝固した。

 礼子もまた、全く動くことが出来ない。離れて見ているにも関わらず、蘇った雅子の瞳が放つ、凄まじいばかりの眼光に、全身の神経が痺れているのだ。

「あれは…花宮じゃないわ…」

沙世子のうめき声に、一美が激しく首を横に振る。

「そんな、あほな…まぁじゃなくて、いったい…」

 その瞬間の雅子の動きを、誰の目も捉えることが出来なかった。俊敏な毒蛇が鎌首をもたげて獲物を一撃する動作に酷似していた。少女の赤い唇が大きく開き、光る小さな歯が、兄である青年の左の首筋に、深々と埋まっていた。

 公輝は、大きく背中を反らせたが、妹を抱く手を離そうとはしなかった。驚愕に見開かれた眼、歪んだ口、しかし、そののどから絞り出されたのは、どこか甘い響きを帯びた喘ぎだった。

「あ…あああ、雅子…な、に、を…」

声はそこで途切れ、青年の目は膜がかかったように輝きを失い、どんよりと焦点を失う。

 礼子の歯ががちがちと鳴った。寒気で身体の震えが止まらない。恐怖が、彼女を恐慌に陥れている。冷徹な沙世子ですら、なすすべもなく目の前の光景を見つめているしかないようだ。だが、一美は…

「嫌や!まぁ、そんなことしたらあかん!」

よろめきながら立ち上がり、ベッドに向かって突進すると、雅子の肩を掴んで、公輝からもぎ離そうとする。

 雅子は目だけを動かして、一美を見た。一美の手が、弾かれるように雅子の肩から外れる。

「熱い!」

一美の掌は、灼熱した鉄板に触れたかのように、赤く火膨れしていた。

 反り返っていた公輝の身体が、空気を抜いたようにぐんにゃりと緊張を無くしていく。震えながら見つめる礼子には、その数分間が何十時間にも感じられた。兄の首に唇を当てている雅子の表情は、無心な童女のようだ。だが、その口元からのど、そして胸に垂れていくのは真紅の鮮血だ。なんのためらいもないひたむきさで、雅子は、兄の血を飲み干していった。

 朽ち木が倒れるように、という形容そのままに、青年の身体が床に転がる。その生命が消え去っているのを、礼子は確信した。

 ベッドの上に横座りになり、口元を手で拭った雅子は、ゆっくりと立ち上がり、一美と礼子、沙世子を見回す。眉間に縦に皺が刻まれ、雅子は唇を噛んだ。

「津村と、レイ?…あたしを、偽のサヨコだって言いに来たの?だめだよ。あたしが、本当のサヨコなんだから。あたしが、サヨコを体育館に呼び出したんだからね!」

 

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 雨風に晒された枯れ枝さながら、白く乾ききった公輝の肌に、憑かれたように視線を当てていた礼子は、雅子の言葉にぎくりと顔を上げて呟く。

「レイって…サヨコって…?なにを言ってるんだよ、まぁ…」

 沙世子の顔が蒼白になっている。礼子をかばうようにマントを広げて立ちはだかり、雅子の凶悪な視線に立ち向かう。

「どうしてそんなに…サヨコになりたいのよ!」

沙世子の叫びに、雅子が優美にのどを反らして笑った。乾いた血糊がその肌から剥がれて散る。

「あなただって、レイだって、なりたくてあがいていたんじゃないの。魂の奥に隠れている、本当の自分を引き出してくれる、サヨコに!あたしは、学級委員なんかやっているいい子の自分が、嫌でしょうがなかったんだ。身勝手で貪欲な…玲が鬱陶しかった。高慢で顔と頭の良さを振りかざすあなたが大嫌いだった。生活全てに規則や枠をはめる学校ってとこが、もうたまらなくうんざりなの。全部、壊してみたいのよ」

 礼子は、自分に向かって人差し指を突き出した雅子に、かぶりを振る。

「あたしは、礼子だよ!潮田玲さんじゃないよ!まぁ!」

 熱傷を負った右手を、左手で押さえながら、一美が肩を震わせる。

「まぁ!うちを、うちを覚えてへんの?忘れてしもたの!」

 雅子は、ゆっくりとクローゼットに歩み寄り、慣れた手つきで下着を取り出し、身につける。そしてためらうことなく、白い長袖のセーラー服をハンガーから外した。礼子と沙世子は愕然とする。

「なにそれ!どこの制服?」「西浜中学の制服よ!」

 服を着終わった雅子は、一美に向かって嘲るように言う。

「あなた、そっくりだね、津村沙世子に。従妹かなにか?」

一美ののどから、絶望の悲鳴が漏れ、長い髪をかきむしって、ジャージ姿の少女は床にくずおれた。

 それを見向きもせず、雅子は改めて熾烈な視線を沙世子と礼子に向ける。

「あの北校舎の火事、どうして起こったと思う?」

沙世子が唇を引き結んで身構える。「まさか…あなたが…」

「そう。あたしが、こうやったの!」

雅子の唇が艶麗な笑みを浮かべたかと思うと、そのしなやかな右手が一閃した。空中に猛火が出現し、龍の顎の形になって、沙世子と礼子めがけて襲いかかった。礼子をかばって立つ沙世子の黒いマントが火を噴いた。

 

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「津村さん!!」

礼子が絶叫して、炎の人形となった沙世子に駆け寄ろうとしたとき、燃えるマントが翼のように翻り、雅子に向かって飛んだ。

 真紅の蝙蝠さながらに襲ってきたマントに、雅子が怯み、白いセーラー服をよじって身をかわす。礼子は沙世子に腕を掴まれ、部屋を飛び出した。マントを脱いだ沙世子はブラウスにグレーのスカートだ。その身体のどこにも火は付いていない。

「逃げるのよ、沢渡さん!」

「一美がまだ中に!」

もがく礼子を有無を言わさずに引きずり、沙世子は階段を駆け下りると、廊下にへたりこんでいる雅子の両親に叫ぶ。

「外へ出なさい!火事になります!」

その声の威厳に、両親は電撃を受けたように立ち上がった。階上から、ばりばりという物音と共に、炎の舌が噴き降りてくる。

「公輝、公輝は?!」

うわごとのように叫ぶ雅子の母親を、その夫と沙世子とが力任せに玄関から抱え出した。見上げる礼子の眼に、二階の窓を突き破って荒れ狂う炎が映る。

 見る間に建物全てが炎上した。複数のサイレンが、遠く響き始めた。凄まじい熱気に、礼子は一歩一歩後退する。その横で沙世子が唇を噛みしめている。

「一美は…?まぁは?!」

からからに渇いたのどで、無理矢理に礼子が声を絞り出したとき、沙世子が右手を突き出し、炎の上空を指さした。

 緑と赤、二つの光球が、轟々と立ち上る煙と陽炎のなかに浮かんでいた。それは、赤い光に包まれた雅子と、緑のオーラを放つ一美だった。

「うちは…なんてことをしてしもうたんやろ。こんな、こんなことになるやなんて」

空から一美の悔恨に満ちた声が降ってくる。無邪気な嘲笑がそれに応えた。

「あたしを蘇らせたこの血は、あなたが運んでくれたんだね。ありがとう。でも、あなたも、サヨコだね。津村も玲も、ほかのサヨコも、みんなあたしが呑み込んであげるよ。でも今日は、三番目のサヨコの血を貰ったから満腹だ。こんどね」

 高く笑い声を発して、赤い光球は猛スピードで空のかなたへ去っていく。緑の光は慟哭と共に地上に堕ちた。

 

     61

 一美の長い髪を、雨粒が撃つ。両手で地面を握りしめ、少女は身体をよじって哭いている。白いブラウスの肩を濡らしながら、沙世子が歩み寄り、力任せに一美のジャージの襟を掴んで立たせた。沙世子の頬は怒りに紅潮し、眼光は苛烈である。

「泣いてるなんて…泣くだなんて、信じられない!あなたのやったことを見なさいよ!」

両手で一美の襟首を絞りあげ、沙世子は弾劾の言葉を叩き付ける。一美は涙でぐしゃぐしゃになった顔を天に向け、激しく首を横に振った。

「うちは…ただ、まぁを取り戻したかったんや。もう、取り替えしつかへん、うちは…死んでお詫びする」

高く、一美の頬が鳴り、少女は土の上に倒れる。鋭い平手打ちを放った沙世子は、接近するサイレンの響きの中で叫んだ。

「見損なったわ!鳴滝!」

 礼子は自分でも分からない衝動に駆られて、地面に転がる一美に走り寄った。泥まみれのジャージの肩を抱え、沙世子に顔を向けて言った。

「一美は、いまは、泣くしかないんだよ…」

その言葉に、沙世子は不思議な表情になって黙った。礼子の顔を、目を細めて見つめ、どこか懐かしいような顔つきをする。消防車とパトカーのサイレンが、間近に迫った。沙世子は髪を振り、冷徹な目に戻って、礼子に言う。

「事情を聞かれたりしたら、なんて言ったらいいかわからない。一美を連れて、行きましょう。早く!」

 激しく降り始めた雨の中を、三人の少女は身を寄せ合って行く。振り返った礼子は、黒煙と火炎を噴き上げる花宮家と、それを茫然と見つめる雅子の両親の後ろ姿に、唇を噛んで目を伏せた。

 

 

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