その6

 

 

 

 

 

 その6・吸血の群れ

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 色とりどりの傘をさして、制服の少女たちが登校して行く。聖アガタ女子学院の門の近くである。朝の少女たちはあまり笑い顔がない。鬱陶しい梅雨のせいもあるが、ほとんどは寝不足だったり、宿題がやってなくて頭が痛かったりするせいだろう。誰もが多かれ少なかれ、悩みを抱えているものだ。

 けれど、沢渡礼子にとって、回りを歩く全ての学友たちが、羨ましかった。

(あたしは、もう、彼女たちみたいな明るい学生生活は出来ないんだなあ…)

 わずか数日で、礼子の世界は激変した。姿は見えないが、この瞬間も鳴神一族の誰かが、礼子をどこかから護衛しているはずである。かつて花宮雅子だった「カーリー・マー」の襲撃を察知するために。

「あれからまだ、まぁはどこにも現れていないわ。佐野美香子先生とも連絡が取れたの。先生、一ヶ月前からイギリスに研修で行っていて、半年は戻らないって」

今朝の電話で、沙世子からそう聞かされている。

 7月とは思えない肌寒さに、礼子は少し肩を縮ませて校門をくぐった。教室のドアを開けると、クラスメイトの人いきれで、かなり暖かさを感じてほっとする。だが、不意に冷たい違和感を感じた。

 その座っている少女の回りに、空虚な隙間がある。誰もが視線を逸らし、彼女を見ていない。礼子は眉を曇らせる。

(誰だったろう…?あんな雰囲気の子、いたっけ?)

礼子の視線を感じたかのように、少女は振り向いた。礼子の眼が大きく開かれる。

「かれん!もう元気になったんだ?」

喜びの声を発して駆け寄りながら、礼子は顔がこわばるのを感じた。麻田かれんは、にこりともせずに礼子を見ている。蒼白な顔、赤い唇、瞬かない瞳…

(違う!かれんは、前の彼女と全然違っている!)

「ありがとう礼子。あたしは大丈夫よ」

かれんは表情を動かさずに言った。礼子は黙った。額に冷たい汗が滲む。かれんは潤んだような目を礼子の顔に向けたまま、言葉を続ける。

「ねえ、一美もずっと休んでるの?まだ登校しないの?」

礼子は返答に戸惑った。あれから二日経つが、一美はまだ目覚めていないと、沙世子は今朝の電話で言っていたが…

「まだなのね…今日の放課後、見舞いに行きたいわ。礼子、一緒に行きましょう」

かれんは一方的にそう言うと、黒板に顔を向け、ぴたりと口を閉ざした。

 席に戻った礼子は、クラスメイトの大部分が、かれんに注目していることに気づく。ひそひそと囁きが聞こえる。

「ねえ…かれんて、あんなに…」「綺麗って言うか、なんか凄みあるって言うか」「妙にセクシー」「なにがあったんだろう?信州で消えちゃってから」

少女たちの囁きには、性的な興奮の熱気がある。礼子は息苦しくなり、耳を塞ぎたくなった。

 

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 かれんが、無事に保護されたとの知らせで、彼女の両親が迎えに行ったのが一昨日。3人でこちらに戻ってきたのが昨日。まさか、登校してくるとは礼子は思わなかった。

「嬉しいニュースです。麻田さんが、クラスに戻ってきました。鳴滝さんは疲労でまだ休まれるということですが、二人とも無事で、本当に良かったですね」

 朝のショートホームルームで、担任の女教師・宮本が事務的に言う。二人が行方不明になっていた理由について、どんな説明がされるのだろうと、礼子は固唾を呑む。宮本が目で促すと、かれんが立ち上がった。

「ご心配おかけしました。あたし、駅前で間違えて地元の路線バスに乗ってしまって、雨で降りられなくなって、山の中まで行ってしまって、パニックになってたんです。でも親切な地元の人に助けて貰って、こうして帰って来れました。えへ、ドジだったなあ」

舌を出して首を傾げるかれんの動作に、級友から少し笑いが起こる。

「一美は、ドジなあたしを捜して、雨の中を歩き回って風邪をひいちゃったんです。今日、見舞いに行って来ますね。ねえ、礼子」

朗らかに言って、かれんは礼子にウインクする。礼子は氷柱を飲みこんだような気分で身体がこわばっている。

(かれんは…こんなに平気な顔で嘘が言える子じゃなかったよ…)

 

 昼休みを待ちかね、礼子は体育館の裏へ走っていくと、携帯電話を取り出した。校内で「携帯」を使用することは校則で禁じられているが、守っている生徒はほとんどいない。短縮ダイヤルで沙世子を呼び出す。

「はい、津村です」「礼子です。今、かまわない?」「ええ、どうかしたの?」

「かれんが、もう学校に来たの。でも、様子が変なんだ。」「どう、変なのかしら?」

「うまく言えないけど…あれは今までのかれんじゃない。青い血で生き返ったまぁほどじゃないけど、人格がまるで違うみたいなんだ…」

沙世子は沈黙したが、すぐに冷静な声が返ってくる。

「麻田さんを助けたのは、関根君のお父さんなんだけど…あ、この呼び方は駄目ね、唐沢探偵と言わないと。彼はまだ飯田にいるそうなの。早く会って、話がしたいわね。そうすれば麻田さんの事もきっと説明してくれると思うんだけど」

 

 鉄パイプのベッドで、赤石えりかは穏やかな寝息を立てている。無精髭をこすりながら、唐沢多佳雄はまぶしそうにえりかの白い顔を見つめていた。

 梅雨空の雲が切れて、日の光が不意に病室に射し込んだ。えりかに直射日光が当たるのを防ぐため、多佳雄はカーテンを引こうと立ち上がる。窓に手を掛けたとき、ベッドの上から声がした。

「…ここは?どこ?」

振り返ると、えりかが黒い瞳を見張っていた。起きあがろうとして、苦痛に顔をしかめる。慌てて多佳雄は毛布の上からえりかを押さえる。

「大丈夫、ここは飯田市の病院ですよ。傷は心配ないそうだ。綺麗に肩を抜けているから、すぐに治るって」

ぼそぼそとした喋り方だが、人の良さそうな多佳雄の声に、えりかの顔の不安と緊張がゆるむ。しかし、すぐに切迫した言葉が漏れた。

「…あたしが撃たれたあと、どうなったんですか?」

「魔王…と言うのか、あの青い血の怪物と、マタラシュウは山の向こうに消えていきましたよ。あとに残ったのは、何十人もの死んだ兵隊。それもすぐに米軍らしいヘリコプターが来て、運んでいったみたいだ。駒峰のお爺さんお婆さんたちは無事です。あ…麻田かれんちゃんは、昨日家に帰りました」

多佳雄の説明に、えりかは頷いていたが、かれんが帰宅したと聞いて、眉が曇る。

「かれんさんの家の人には、なんて説明をしたの?」

多佳雄は、渋面になって髪をくしゃくしゃと引っ掻く。

「なんて言ったらいいか、戸惑っていたら、かれんちゃんが勝手に喋ってねえ…バスを乗り間違えて、山奥に迷い込んだ、とか言ってたなあ」

 えりかはきっぱりと言った。

「あたし…行かなくちゃ。かれんさんや、一美さんが心配だよ」

 

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 放課後も雨は降り続いていた。黒い傘で前を行くかれんに、礼子はなにを話して良いか迷っている。しかしかれんは頓着することなく、一美の家=成瀬家目指して進んでいく。

 インターホンに出たのは、あのベリーショートヘアの無表情の秘書だ。かれんは朗らかに喋る。

「一美さんのクラスメイトです。麻田と沢渡です。お見舞いに来たんですけど、入って良いですか?」

「沢渡さんもいるのですね…どうぞ」

まぁが居た頃は彼女に頼り切り、その後は礼子や一美の後に付いていたかれんが、先に立って成瀬家の洋館に入っていく。

 応接間に通され、紅茶を振る舞われた二人の前に、奈津が現れた。礼子に黙礼し、かれんの顔に視線を向ける。

「麻田さん、大変でしたわね。もう、体の具合はよろしいの?」

「一美さんとお話がしたいわ。一美は、どこ?」

かれんの余りな不躾な態度に、礼子が肩をすくめる。奈津は目を見張り、射通すような鋭い視線でかれんに語りかける。

「あの子はまだ、目を覚ましていませんわ。過労で…」

「テレボーテーションで、こんな遠くまで来たんだものね。そりゃくたびれるよね」

嘲笑の声でかれんが言う、礼子は思わず腰を浮かした。

「かれん、あんた…思い出したの?あの礼拝堂でのことを」

「一美に会わせて!あたし訊きたいことがあるの!」

かれんは礼子の言葉を全く無視し、駄々っ子のように身体を揺する。その時、応接間のドアの外で、秘書が低く叫んだ。

「一美さん!駄目です、そんな状態で!」

ドアが開いた。パジャマ姿の一美が、乱れた髪の間から、蒼白な顔でかれんと礼子を見た。

「一美!」

飛び上がるようにかれんが立ち上がり、一気に一美に駆け寄って、その肩を掴む。

「ねえ、知っているでしょ、あの人、あのお方、あるじ様、今、どこにいるの?ねえ!」

かれんが前後に揺さぶる激しい力に、一美は髪を振り乱してのけぞった。秘書が止めようとするが、かれんは容赦なく一美を責め立てる。

「答えてよ!あなた超能力者でしょ?わかるでしょ?」

礼子は、椅子を蹴倒してかれんに飛びかかり、彼女の右腕を強く掴んだ。親指がツボに入り、かれんの腕は全く痺れてしまう。

「痛い!なにすんのよ礼子」

かれんは猛烈な力で暴れようとするが、まるで腕に力が入らず、一美を離した。よろめく一美を、秘書ががっしりと抱き留める。一美は蒼白な顔を恐怖に歪め、かれんを見つめた。

「なによ!みんなで馬鹿にしてるでしょ、あたしのことを!」

かれんは醜く眉間に皺を寄せ、罵声を吐く。

「犬っころみたいに、まぁや礼子に懐いてる奴だって、軽く見てたでしょ!もう譲らないからね、あのお方は、あたしのものなの、一美がどんなにスーパーガールだって、あたしの愛を邪魔させない、教えなさいよ!」

 唖然とする奈津に、秘書が、緊迫した声で告げた。

「奈津様!この少女の身体には、仕掛けがあります!念術者を、いますぐに!」

 

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「そんな…!」

一美が、悲痛な叫びをあげたとき、ドアが開き、部屋に車椅子が入ってきた。不二彦老人が、まっすぐ上体を起こし、電動装置で車椅子を操ってかれんに接近する。

「わしがやろう!」

つぶやくなり、不二彦の皺だらけの細い右手が、もがくかれんの脇腹に突き込まれた。礼子は、自分の目が信じられない。老人の手は、制服を突き通って、すぶり、とかれんの身体に刺し込まれたのである。かれんの身体が硬直する。ぽかん、と口を開け、目が泳ぐ。不二彦は、かっと目を見開き、なにか呪文のように呟きながら、かれんの体内をまさぐっているようだ。

「南無八幡!」

老人とは思えない気合いのこもった叫びと同時に、不二彦は右手を抜いた。5本の指が、固く何かを握りしめている。その手は、透明な液体で濡れているが、血は付いていない。

 奈津が進み出て、両の掌を上に向け、不二彦に差し出す。老人は、ゆっくりと握っていたものを、奈津の掌に移す。それを捧げ持った奈津は、無言で目を細めた。その全身が緊張し、眼光が尋常でない。

(ああ、一美が超能力を使うときと同じ、目の色だ)

 そう感じたとき、礼子は、奈津の掌の上から、白い気体が立ち上るのを見た。物体は真っ白になっている。

「凍結しました。これで、大丈夫」

奈津が言うと、不二彦はほっと安堵の息を付き、かれんを見やる。うつろな目を開けたまま、かれんはがくりと膝を突いた。

 秘書が奈津に近づき、凍り付いた物体をじっと注視する。

(彼女も、特別な力…きっと透視能力を発揮してるんだ…)

「プラスチック爆薬に、信管が埋め込んであります。起爆装置は、電極に、有機プラスチックが挟んでありますね。感情が高ぶって、体液の酸の濃度が上がると、溶けるようになっているんでしょう。危なかった、あと少しで通電するところでした」

「ばくやく?!」

礼子は目を丸くして、奈津の掌とかれんを見比べる。不二彦がかれんに近づき、しなびた掌を、少女の額に当てる。

「お嬢ちゃん、悪い夢を見ていたんじゃよ。忘れなさい、あの緑の目をした男のことは」

かれんは、目を激しく瞬き、ひっ!と息を吸い込んで、幼子のように泣き始めた。

「青い血の怪物が、かれんの身体に、爆弾を埋めこんだんですか?」

礼子が訊ねると、不二彦は軽く首を横に振る。

「あれは、そういうことはせん。こんなえげつない戦術は魔多羅衆が得意じゃ。催眠術も施して、わしらの家に向かわせるようにしておいたんじゃろう。一美への敵意を利用してな」

 

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 嗚咽していたかれんが、切れ切れに呻く。

「…でも…好きなの…あの人が」

不二彦は顔をしかめ、気の毒そうに呟く。

「あれは、人ではない。お嬢ちゃんは、血を吸われたんじゃよ。そのショックで…」

「違うの!」

かれんは激しくかぶりを振って叫ぶ。

「あの人は、血を吸わなければ生きていけないけれど、心は、どんな人間よりも綺麗で、誇り高いの。あたしには、いいえ、一美にだって、とても優しかった。マタラとかいう怖い人たちや、銃を持って襲ってきた人たちから、あたしを守ってくれたんだよ」

かれんは、不二彦と礼子の手を振り放し、立ち上がって、涙に濡れた顔を一美に向けた。

「あたしは、どんなことをしても、もう一度あの人に会うから!」

きっぱりと言い切り、かれんは部屋を走り出た。礼子は後を追いかけて立ち止まり、おろおろと不二彦に質問する。

「あの、かれんの身体は、大丈夫なんですか?お爺さん、手を刺しこんだんでしょ」

秘書が顔色も変えずに答えた。

「傷一つ付けず、体内の異物だけを取り出されたのです。大変な集中力を必要とします、不二彦様はお疲れがひどいはず」

言い終えて、秘書は不二彦の車椅子を押す。老人は目を閉じ、ぐったりと背もたれに身体を預けた。

 礼子はふと気づいた。

「一美は…?かれんを追っていったんだ、パジャマ姿で!」

 

 玄関を走り出てすぐに、路上に手を突いている一美が礼子の目に入った。かれんの姿はもう見えなかった。

「一美、大丈夫…」

礼子の声を遮り、一美は歯を食いしばる。

「うちは、取り返しのつかへんことをしてもうた。かれんの事を忘れて、まぁに青い血を掛けて、とてつもない怪物を蘇らせて…なあ、礼子、うち、どないしたらええんやろ」

 言葉が見つからず、礼子はただ、一美の肩を抱きしめる。その背後から、老女の冷徹な声が刺した。

「一美、責任をとりなさい。カーリー・マーと、青い血の怪物を、闇へ封印するのです。おまえの持つ全ての力を振り絞って」

奈津の表情は、厳粛そのものだった。しかしその厳しい目の光の中には、一美の力への信頼が込められているように、礼子には思えた。

 

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 土曜の昼下がり。梅雨の中休みで、強い日差しの照りつける原宿・表参道を、礼子は一美と沙世子と一緒に歩いている。

 既に彼女はキレかかっていた。一美と沙世子はほとんど言葉を交わさず、お互いに無視しあい、歩く速度も別々である。加えて、頻繁にナンパ野郎や芸能プロのスカウトが声を掛けてくるのだが、二人はまったく反応しないため、礼子が一手に応対しているのだ。

「なんで、一番イケてないあたしが、こんなに汗かかなくちゃならないのよ!」

しつこいスカウトを蹴散らしている間に、勝手に先に行ってしまった二人めがけて、礼子は地団駄踏んで怒鳴る。

 振り返った二人は、一応すまなそうな顔をしてはいるが、すぐにそれぞれの「探索」に没頭してしまう。

(まったく、あたしはともかく、こんな二人が原宿なんかに来れば、野郎が寄ってくるのは目に見えてるってのに)

 礼子は頭に来て、手近な屋台店でソフトクリームを買い、かぶりつく。3人は、生き返ったまぁ=カーリー・マーの行方を探しに来ているのである。

(沙世子が玲さんに聞いた話じゃ、中学時代のまぁは、こっそり渋谷や原宿に熱心に来てたんだそうだけど…)

 成瀬奈津も、繁華街に行くことを勧めた。人気の高い街ほど、「魔」が潜みやすいのだと言った。

「魔多羅衆は、博徒や水商売、芸能関係者などと昔から繋がりが強いのです。験を担ぎたがる稼業の者たちの一部で、魔多羅衆は神に等しく崇拝されています。青い血の怪物の棺は、間違いなく東京に入りました。新宿を中心に、私どもは探索しています。あなたたちには、カーリー・マーを探すのをお願いしたいのです。人間だったときのマーと歳も近く、友人として付き合っていたあなたたちの感覚なら、きっと探せます」

 待ち合わせた原宿駅から、沙世子と一美は、超感覚のアンテナを張り、気配を探りはじめたようだが、礼子は、てんでばらばらに動こうとする二人にくっついていくのが精一杯だ。

 一美が見えない跡をたどるように地面に目を落としながら、雑居ビルの剥き出しの階段を昇り始めた。ほとんどテナントが入っていない、空きビルのようである。反対側のブティックのウインドーを見ている沙世子の手を引っ張り、礼子は一美を追う。

 空きビルの階段を昇り、建物内部に入ったとき、沙世子の顔色が変わった。一美の腕を掴み返し、先頭に立つ。礼子の耳に、微かに重い足音が聞こえた。一美のものではない。明らかに複数の男がいる。

 不意に、男たちの靴音が高鳴る。礼子はその乱暴な響きに、殺気を感じた。沙世子を振り返る。長い髪の美少女は、奇妙なことをしている。汚れて暗い窓を開け、空に向かって腕を突きだしているのだ。

「なんだあ、このガキは!」

「そいつを逃がすな!」

獰猛な罵声が交錯し、叩き付けるような激しい物音が起きた。礼子は緊張に唇が一瞬で乾くのを感じながら、音の方向に走る。

 

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 礼子はブルージーンズに黒のTシャツでスニーカーを履いていた。沙世子は無地の薄青いワンピースにサンダルである。窓に貼り付いて動かないワンピース姿を後目に、礼子は埃を巻き上げながら進んだ。

 一美は、白いシャツにサロペットジーンズ(オーバーオール)で、ごついワークブーツだった。その姿は、レストランだったらしい、だだっ広い3階フロアにあった。薄暗い壁際で、一美は男たちに囲まれている、ように見えた。しかし駆け寄った礼子は、息を飲む。

 白いシャツを肘までまくった細い腕が、一人の若い男の喉首を掴み、壁に押しつけていた。4人の男がその回りにいるのだが、誰も手を出せないらしい。一美は、鋭く目尻を吊り上げ、ぐい、と右腕で掴んだ男を持ち上げる。既に男の靴は床を離れ、締め上げられた男の顔面は真っ赤だ。一美は右手一本で体重70キロはありそうな男を持ち上げ、左手で男の喉に巻かれたバンダナを引き剥がす。もがく首筋に、赤い斑点が二つ。

「答えや!この傷、誰にやられた?」

回りの4人も、全く同じように喉にバンダナを巻いている。5人とも頭髪を赤や茶に染め、わざと破ったジーンズに、何日も着たままの不潔なTシャツ姿である。歪んだ表情と、なにかに取り憑かれたような目も共通していた。

「…おまえ、あの子の仲間か」

男の一人が、かすれた声で一美に問いかける。

「あの子?…もしかして、おまえらの、血を吸った女の子のことなん?」

一美が振り向き、声を発した男をにらみつける。

「やっぱり…なあ、俺たちこそ、あの子を探してるんだ。居場所知ってるなら教えてくれ、頼む!もう一度、あの子に…」

飢えた顔つきで、男は懇願する。一美の顔に、強烈な不快感と嫌悪が滲んだ。

「おまえら、血を吸われた快感に虜になって…」

見回した一美の視線が、ある一点に釘付けになる。視線を辿った礼子の目に、フロアの反対側に転がっている、マネキン人形のようなものが見えた。同時に、礼子の鼻に異臭が漂ってきた。口の中に、赤錆の味を感じた。鼻の奥がつんとするほど酸っぱく、目に涙が滲むほどの悪臭だ。

 一美の顔が、恐怖と驚愕とで凍り付いている。礼子は、慌てて、マネキン人形のようなものをもう一度見た。目が薄暗がりに慣れ、それが、ボロボロの衣服の切れ端だけをまとった、ほとんど裸体の女だとわかった。髪を乱した顔を横に向け、仰向けに横たわっている。顔や身体に、何か細かい黒点が蠢いている。不意にそれが舞い上がった。ハエだ。おびただしいハエにたかられているのだ。悪臭は…その女の身体から漂ってきていた。礼子は、頭の中が痺れ、膝ががくがくした。

「おい、こっちにも一人ガキが…見られたぞ!」

若い男の声が礼子の耳元で響く。赤く濁った男たちの目が礼子を刺すように見た。四人のうち二人が、礼子に足を踏み出した。

 そのとき、涼やかで凛とした声が、フロアに響く。

「あなたたち、目を覚ましなさい。それ以上罪を重ねる前に、日の光を浴びなさい!」

声と共に、西側の窓を覆っていた長いカーテンが、一気に開いていく。射し込んだ陽光を背に、長い髪のワンピース姿の少女が立っていた。男たちは悲鳴を上げて顔を覆い、日陰に逃げる。

 

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「頼む、放してくれ。目が痛い。目が潰れる…」

壁に押し上げられたまま、手足をばたつかせてもがく男に、一美は怒鳴る。

「おまえの血を吸った女の子は、ボブカットの、セーラー服の子?」

「そうだ、そんな格好で。名前は…マーって言ってた。夜の裏原宿でナンパしたら、いきなり…」

「今、まぁはどこに?!」

男は答えず、暴れて一美の腹を蹴り上げる。まともにヒットはしなかったが、一美は腰を引いて手を離した。這うようにして男は暗がりめがけて逃げる。追おうとした一美が、不意に立ち止まる。暗がりに先に逃げ込んだ男の一人が、大型のサバイバルナイフを突きつけていた。

「そんなもんで、怖がると思うてるん?」

「うるせえ、チクられてたまるか。おまえも!」

サバイバルナイフを握りしめて突進してくる男に、一美は嘲笑を見せて、掌を向けた。男は勝手にバランスを崩し、たたらを踏んで、日向に身体を晒してしまう。絶叫してナイフを落とし、目を覆ってうずくまった。他の4人は、怯えて暗がりにうずくまったままだが、一人が携帯電話を耳に当てている。

「…頼みます。妙なスケが3人乗り込んできやがって、おれらのやったことを見られました。はい、すぐに来て下さい」

卑屈な声で、携帯に頼み込んでいるのを聞いて、一美の顔色が変わる。

「誰を呼んだんや?」

その声がまだ終わらないときだった。いきなり一美の背後に、黒い服装の男が出現した。手に銃身の短い軍用ライフルを持っていた。ものも言わず男は引き金を引いた。銃声が3発、連続して響き、銃口からの火炎が、一美の背中に伸びる。礼子が悲鳴を上げた。

 しかし、銃の炎が消えたとき、一美の姿はどこにもない。発砲した男が歯噛みをする。

「くそ、相変わらず素早いテレポーテーションをしやがって、勘のいい小娘だ」

銃口が、礼子と沙世子を威嚇する。

「二人とも、そっちの壁に、手を突いて後ろを向いて貰おうか」

狭い建物の中で反響した銃声と硝煙の匂いに、礼子はショックで頭が痺れているような感覚だった。咄嗟には身体が動かない。銃を持った男のやせた顔に、苛立ちが浮かんだ。礼子は沙世子の顔を見る。大きく目を見開き、微かに微笑している沙世子に、礼子ははっとした。。

 そのとき、窓の外で、羽音がした。かあお、と間延びした鴉の鳴き声がする。次の瞬間、窓ガラスが割れ、黒い旋風が室内に飛び込んできた。激しい羽ばたきの音が耳を塞ぐ中、銃を持った男は一瞬で全身黒い物体に覆い尽くされている。絶叫が響いた。男はおびただしい鴉のくちばしで襲われ、為すすべもなく銃を投げ出して床に転がった。

 

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 顔面をえぐられ、血塗れになって失神している男を見下ろして、沙世子が立っている。その両肩に一羽ずつ、巨大な鴉がとまり、誇らしげに血の付いたくちばしを鳴らす。ガラスの砕けた窓枠には、10数羽の黒い翼が陣取っている。沙世子が鴉の羽根をなでながら呟く。

「これが、魔多羅衆の一人…?」

しきり壁の向こうから一美が現れた。

「そうや、たしかワタルとか言うてた」

「こいつらを、どうするの?鳴神一族の方針としては」

沙世子が、ワタルと暗がりにへたり込んでいる5人の男を見回しながら問いかける。一美は不快そうに顔をしかめ、不承不承沙世子に答える。

「あんた、もう、うちがテレパシーで連絡したの、傍受したやろ。そやから、すぐに迎えが来るわ。うちらはそれまで、見張ってればええ」

「そう…鳴神一族と警察が手を組んで作った秘密部隊に任せるのね」

「なんか、文句でもあんのん?」

一美が、沙世子に口を尖らせる。沙世子はうんざりしたように顔をそらす。

「別に…ただ、私、警察ってあんまり好きじゃないの」

一美のこめかみがひきつり、苛立ちと怒りが形の良い唇を歪めた。

「そんなこと言うてる場合やの?うちかてその気色悪い真っ黒な使い魔ども、我慢してるんやで!」

一美の言葉に、沙世子もまたまなじりを吊り上げ、凄まじい眼光になる。礼子は慌てて割って入る。

「喧嘩はやめてよ。警察にはどうせ連絡しなきゃいけないよ。そこに…亡くなってる人がいるんだし」

 一美が、遺体に歩み寄った。群がるハエを手で追いながら、詳細に観察する。

「のどだけやないね、そこら中噛まれて、無茶苦茶に血を吸われたんや、ひどいわ」

一美の怒りの声に、男たちの一人が呟く。

「自分でもわけわかんねえんだよ。やたらめったら、血が飲みたいんだ…」

 礼子は遺体の発する匂いと、吸血の体質にされてしまった男たちの存在に耐えられなくなり、窓に近寄る。鴉たちが丸い黒い目で無邪気に見つめる。日差しは少し陰り、夕方の気配が近づいている。

 不意に、鴉たちが一斉に振り返り、窓の外へ舞い上がった。沙世子の肩にいる2羽が、沙世子に向かって、激しく鳴き立てる。沙世子は大きく目を見張り、遠い声に耳を澄ましているように、両手を耳たぶに当てた。

「うそ…おばあちゃん、嘘でしょう!」

それは礼子が初めて聞く、取り乱した沙世子の叫びだった。巨大な鴉たちが窓の外に飛び出すと同時に、沙世子は一美に駆け寄り、肩にすがって懇願した。

「お願い、私を、今すぐ、おばあちゃんのところへ、テレポーテーションで送って!」

 

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「なんやのいったい?こいつらを渡すまで、見張ってなあかん…」

「まぁが、私のおばあちゃんを襲っているのよ!」

一美の反論を、沙世子の絶叫がかき消した。一美の顔色が変わる。

「どこ?どこやの、その場所は」

「北区の赤羽駅近く、荒川のほとりに建ってる、豊島医大病院!」

一美の顔が絶望的に曇る。

「うち…自分が一度は行ったことある場所で、はっきりイメージの浮かぶとこでないと、跳べへんのや」

「お願い!どうにかして、私をテレポーテーションさせて、私にはその力はないの。一生のお願いよ!」

半狂乱で沙世子は一美を揺さぶる。その両目から涙が溢れている。礼子は息が詰まる思いだ。

「一美、その病院の近く、北区のどこかへ、行ったことないの?」

一美は唇を噛んで首を横に振る。沙世子は泣き崩れそうになりながら、一美を突き飛ばし、部屋を走り出ようとする。その肩を一美が掴み、いきなり力いっぱい抱きすくめた。

「待ってや、沙世子。やってみる!うちの頭に、あんたのおでこ、くっつけるんや」

強引に沙世子の頭を掴み、額と額を接して、一美は言葉を続ける。

「強く、イメージしてみて。あんたのおばあちゃんのいる病院、病室、壁の色、ベッドの形、窓から見える景色…そして、おばあちゃんの顔!」

 沙世子は震える瞼を閉じ、一美にもたれかかる。一美はがっしりと沙世子を抱きしめる。少女二人は、接した額を境に、ほとんど左右対称に見え、神秘的なほど美しい。荘厳とさえ言える光景にうたれる礼子の眼前で、二人の輪郭がぼやけ、薄れていった。

「瞬間移動…したんだ、一緒に」

感動してつぶやいた礼子は、しかし、背後で男たちが動き出す気配に、背筋に氷水を浴びたようにぞっとなった。

 

 空間転移の一瞬。激烈なエネルギーの渦に揉まれる暗黒の中で、一美と沙世子の脳裏に、

声が響きわたる。

「沙世子!来ちゃ、だめ!あなたまで、やられてしまう!」

津村ゆりえの声だと直感した一美は、転移終了直前で出現場所をほんの僅かずらした。ただでさえ過酷な衝撃に耐えねばならない一美と沙世子に、さらにねじれのモーメントが加わり、二人は全身に激痛を覚えながら、まばゆい日の光の下に投げ出された。

 僅かな時間で莫大な能力を消費した一美は、歯を食いしばりながら、地面に転がる。そこは芝生だった。跳ね起きた沙世子は、狂おしく周囲を見回す。白く塗られたコンクリートの病棟が聳えている。

「おばあちゃんの部屋は、あの、6階の…」

沙世子が確認した瞬間だった。まさに6階の、その部屋の窓から、真紅の炎が噴出した。粉砕された窓ガラスが、美しくも凶悪な輝きを発して、沙世子と一美に降りかかる。轟!と爆発音が建物と大地を揺るがし、耳を塞ぐ。

 茫然と、炎を見上げて凍り付いていた沙世子は、やがて、言葉にならない絶叫をあげ、病棟に駆け込んでいく。一美は、よろめきながら必死に立ち上がり、燃える病室を振り仰いだ。6階の一室から炎は他の部屋や上階にまで広がり始め、悲鳴や足音で、騒然とし始めている。

 その物音の中に、一美は笑い声が聞こえたような気がした。澄んだ少女の声である。しかし、一美はその響きに凄まじい邪悪さを感じ取り、総毛だった。

(どこや、どこで笑ってるんや?)

 噴き上げる炎と黒煙に見え隠れしながら、幻のように立っている屋上の小柄な人影。一美は錯覚かと目を疑った。熱と煙にさらされながら、平然と地上を見下ろし…高らかに笑っている、セーラー服の少女。

「まぁ!!」

 一美は、こみ上げる怒りと悲しみに、目が眩みながら、絶叫した。

 

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 …フフ…これで、サヨコは終わりになるんだね…

雅子の思いが、一美の心の中に直接響く。

 …黒川先生や、佐野美香子先生、それに玲なんて、別にたいしたサヨコじゃなかったんだよ。この、魔女みたいなおばあちゃんこそが、サヨコの根源。すごいパワーを血の中に持っていたよ。こんな年寄りなのに、綺麗で美味しい血だったしね…

「許さへん!」

一美はうまく声が出ない。あまりの激昂に、舌が痺れ、脳の血管が詰まったように感じる。雅子を逃がしてはならない、その意志が、消耗しきった一美に力を奮い立たせる。

 …もう、サヨコなんて問題じゃない。あたしは、あたしの名前で、やりたいことをする…

 呟き続ける雅子めがけて、一美は跳んだ。空間転移をする力はなく、念動力で身体を持ち上げた。その一美の顔面に、火球が襲ってくる。念動力のバリアで弾き返したが、身体を空中にとどめる事が出来ず、一美は落下した。それでも体制を立て直し、再び屋上を目指す。

「下らない、サヨコ伝説とかの為に、自分のお兄さんや、津村のおばあちゃんを、殺したんか!」

 火災の熱が陽炎となって揺らめく屋上で、一美は雅子に突進する。ボブカットの少女は笑い続けながら、掌を一美に向けた。空中から炎の弾丸が生じ、唸りを発して一美に集中する。顔を伏せ、腕を十字に組んで必死に防ぐ一美の耳に、雅子の肉声が届く。

「ゲームを終わらせたんだよ。って言ってもあなたにはわかんないか。これであたしは、サヨコから解き放たれた。これから、あたしの台本を、実現させることができるんだ」

「なに言うてるか、わからへんわ!」

火炎攻撃を跳ね返し、一美は雅子めがけて体当たりする。笑い声を残して雅子の身体は瞬時に消え失せ、一美は熱く焼けた屋上のコンクリートにつんのめって手を突いた。

 一美の顔に無念の表情が滲む。もう、雅子の気配はどこにも感じられない。その代わりに、燃える建物の中から、慟哭する沙世子の声が聞こえた。屋上から棟内に降りる階段からは、猛烈な黒煙が噴き出している。一美は息を整え、足に力を込めて一歩一歩、降り始めた。普通の人間なら、即時に窒息してしまうだろう。

 6階の廊下は、火の海となっている。一美はただひたすら、沙世子の声の方角へ突き進んだ。

 破壊し尽くされた病室の中で、青いワンピースの少女は立ち尽くし、天井を仰いで泣き叫んでいる。その身体の回りで、青い火花がスパークし、焼けてもろくなったコンクリートや内装が砕け散っていく。

「沙世子!外へ出よう!いくらあんたでも、この熱の中じゃ…」

ワンピースの肩に回した、一美の腕を、沙世子は斬り捨てるように振り払う。

「私に、触らないで!」

炭化した床とまだ燃えさかる火を踏みしめながら、沙世子は歩き始める。その胸にしっかりと抱きかかえているのは…

 一美は息を飲み、ただ、沙世子について行く。5階から下に火は及んでいない。しかし避難しようとする患者の悲鳴と、職員の誘導の声で混乱の極にあった。そのただ中を、沙世子は青いスパークを散らしながら進む。少女が胸に抱えた、黒こげの人体の一部…おそらくは胴体の半分…に、誰も気が付かない。

 病院の玄関を出る。青空を覆う黒雲…それは、火事の煙だけではない。無数の羽音としゃがれた鳴き声が、一美の頭上を圧倒する。関東平野全域から集まってきたのではないかと思われるほどの、鴉の群れが旋回している。その一部は、沙世子を導くかのように、ある方角を目指して列をなして飛んで行く。沙世子の背中は、絶対の孤独を選んで、一美が後を追うことを拒絶していた。

(黒い巨大な翼を天にかざしながら、荒野に突き進む堕天使!)

沙世子を見送って立ちつくす一美の耳に、サイレンの叫喚が近づいてくる。

 

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 太陽が雲に隠れると同時に、暗がりにうずくまっていた男たちが目を光らせて立ち上がった。礼子は、無意識に後屈(こうくつ)立ちになり、手刀(しゅとう)受けの構えを取る。

(一人で戦うしかない!)

震える身体を叱咤するため、胸の中で叫び、丹田に力を込め、静かに長く呼吸をする。真っ先に礼子に向かってきた敵は、あのサバイバルナイフを手にしていた。その凶暴な光を目にしたとき、礼子の身体は反射的に動いていた。襲撃の動作に入ろうとしていた相手に、逆に礼子は間合いを縮める。虚を突かれた男の顔面に、フェイントの突きを入れ、次の瞬間、全力で右足を下腹部へ蹴り込んだ。

 股間を押さえてうずくまる相手から飛び離れ、再び手刀受けの構えに入った礼子に、今度は側面から敵が突進してきた。バタフライナイフを両手に握り、身体ごとぶつかってくる。その切っ先を僅かにかわしざま、礼子は右腕を折り曲げ、肘を相手のこめかみに叩き込む。少女の細い腕であっても、全身のバネを利かせた一撃に、バタフライナイフの男は昏倒した。

 しかし、息突く間もなく、礼子の背後から、3人目の敵が襲いかかった。手には何も持たず、礼子を羽交い締めにしようとダッシュする。振り向く余裕もなく、礼子は床に転がって、敵の突進を避け、目標を見失ってたたらを踏む右膝へ、ローキックを放つ。バランスを崩す相手に、再びローキック。男は激しい音を立てて床に倒れた。

 礼子は全身に汗を噴き、荒い息づかいで、不動立ちになる。頭を左右に回し、次の敵を探す。この建物に居た5人のうち、残る一人は、最初から戦意がなかったらしく、まだ暗がりにうずくまって頭を抱えたままだ。だが、突然銃を持って現れ、沙世子の操る鴉に倒されたワタルという男は…

 礼子は目を見張り、息を詰めた。血塗れの顔に、片方の目だけを開いて、ワタルは銃を構えて立ち上がっている。ぐらぐらと揺れる銃口は、なかなか礼子に照準が定まらない。しかしワタルの目は、紛れもない殺意を放射している。

 全身の汗が氷になったかのように感じながら、礼子は走った。ワタルの指が引き金を絞る。銃声が鼓膜を破らんばかりに轟き、弾丸の食い込んだ壁が割れた。だがそのとき、礼子は敵の足首めがけてスライディングタックルしていた。ひとたまりもなく倒れ込むワタルに、跳ね起きた礼子は猛烈な勢いで蹴りを連発する。銃が吹っ飛び、顎がのけぞり、踏み下ろしたスニーカーと床のコンクリートに挟まれて、ワタルの頭蓋骨が軋む。うつぶせに蹴転がした男の背中にマウントし、左右の拳で後頭部、側頭部を連打する。

「もうええ!もうええんや!礼子、やめえ!」

耳元で、少女の叫びが爆発し、肩を掴まれた。礼子は、血走った目で振り返り、一美の顔を認めると、大声で泣き出した。

「こわかった、怖かったんだよ!」「ごめん、礼子!ほんまにごめん!」

 抱きついた一美の身体が、ひどく焦げ臭い。一美の服にも髪にも、焼けこげた跡や何かの燃え滓がいっぱい付いている。

「どうしたの、これ…津村さんは?」

礼子が訊ねると、一美は、力一杯礼子を抱きしめ、うめいた。

「まぁが…沙世子のおばあちゃんを…」

 

      86

 しばらく、言葉もなく打ちひしがれていた一美が、不意に顔を上げ、立ち上がる。

「来た。…え、淳一?」

懐かしむような、困惑するような顔で、一美が部屋の入り口を向く。数人の男の足音が、階下から近づき、やがて、痩せて長身の男を先頭に、6人が入ってきた。三十台から四〇代の、あまり目立たない風貌だが、屈強で勤勉そうな男たちである。皆、夏用スーツの上着とネクタイを外したらしい格好だが、先頭の一人だけが違った服装と雰囲気を持っていた。

 ブルージーンズに黒のTシャツを着、背中の半ばまで垂れる長髪を首の後ろでくくった青年は、二十歳前後の容貌でよく日に灼けている。太い眉のしたの瞳は、強靱な意志に輝いている。青年は短く的確に指示を下し、礼子が倒した男たち(魔多羅衆のワタルも含む)に手錠を掛けて、運び出させる。そして振り向き、一美に頷いた。

「君たち二人は、ぼくが成瀬家まで送るよ」

「おおきに、淳一。伊那谷へも、来てくれてたって聞いたけど」

一美が、どこか遠慮がちに礼を言う。淳一は男たちのリーダー格らしかった。空きビルの前には大型のワンボックスカーが二台と、一代の乗用車が停まっていて、手錠を掛けられた男たちがワンボックスカーに積み込まれていく。それを尻目に、乗用車の運転席に淳一が乗り込み、後部座席に乗るようにと、一美と礼子に命じた。

 

「カーリー・マーの位置は掴めない。どうもぼくたちとは空間移動のやり方が根本的に違うんだ」

「沙世子は?」

「彼女は、祖母の遺体を抱いて、荒川の河原を歩いて、自宅の方向へ向かっている。数千羽の鴉と、十数頭の犬を従えてね」

「犬?」

「ドーベルマンとボクサーとジャーマンシェパードと、強そうな3頭が側近のようにいて、あとは回りを遠巻きにして移動中だそうだ」

 一美と淳一は、親しい口調で喋っている。いとこか幼なじみといった雰囲気を礼子は感じた。

「津村ゆりえさんの病室には、酸素吸入装置から大量の酸素を噴き出させていたらしい。ゆりえさんの遺体の一部を除いて、なにもかも燃やし尽くされていたようだ」

「マーはいったい、どこでなにをしてきたんやろ。魔多羅衆とはもう、連絡とってるんやろか?」

「いや、まだ魔多羅衆も必死でマーを探している。マーが吸血した人間を、保護して回っているようだ。ぼくたちと争奪戦になっている」

「そんなに多いの?マーが血を吸ったひと…」「直接はまだ、二桁くらいだろうが、そいつらがさらに、被害者を増やして居るんだ。早く押さえないと、爆発的に感染していくよ、吸血病とも言うべき病気が」

 一美と淳一のやりとりをぼんやりと聞きながら、礼子は空を見上げる。流れて行く道の景色の上に、夏の白い雲が浮かんでいる。日の光は既に夕暮れの色だ。同じ夕陽を浴びながら、沙世子はどんな思いで歩いているのだろう。

(あたしが…津村さんを巻き込まなければ、彼女のおばあさんは死なずに済んだ…)礼子の胸は激しく痛み続ける。

 

 

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